表現された俳句が個人個人の感覚感情から何故離れていってしまったのだろう

        若者の生き方の主張があった……今日は赤シャツ忌
                児 島 庸 晃
 俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての俳句結社「青玄」青春俳句が…そうであった。この若者たちの根底には個々人の若者の生き方の主張があったのだ。次のそれぞれの句を見ていただきたい。
 
   戦争ははじまりませんよ 手籠にねぎ  中永公子 
   ラ・タラッと階段 雪の青年待ってます 坂口芙民子
   唇吸われるも孤独 石階の白い傾斜   山下幸美
   嫉妬が黙らす コーヒーカップの底の白 諧 弘子
   恋ふたつ レモンはうまく切れません  松本恭子
   春の宵は黒いビロード 母と腕組む   穂積隆文
   朝は思考研ぎにだ 便器に座りに行く  児島庸晃(照夫)
 
これらの俳句には時代を背負った思想が力強くある。ここには日々を生きる生き抜くための時代の感覚が鋭く発信されていた。まだこの頃は(昭和40年前後)俳句には自然諷詠が主体であった頃、個人の生き方にまで左右する動きは俳壇全体としてはなかった。日々の生活の中における感情を若者は大切にしたかったのだ。それが俳人伊丹三樹彦の俳句革命であった。現代語感覚が俳句の表現には必要との思考に同意する若者が沢山増えていったのである。生活俳句の実践であった。
 
 何故、最近の俳句が、昭和40年前後に逆戻りしてしまっているのか。表現された俳句が個人個人の感覚感情から離れていってしまったのだろうか。俳句に「私」の感情が入らなくなったのか。作られた俳句だが、今の句は何故に私の感覚感情が抜けてしまったのだろう。自然諷詠に戻ってしまったのだろう。俳句は私性の文体でなければ若者は俳句から離れてゆく。いまこそ生活俳句への回帰がいるのではないか。伊丹三樹彦は昭和32年から、その改革へと実践した俳人である。その頃多くの若者が伊丹三樹彦主宰の「青玄」に集まってきた理由である。因みに、今日9月21日は99歳で彼の世に旅立たれた命日である。「赤シャツ忌」である。この忌の名の由来は、伝統派の俳人により俳壇から抹殺され、俳壇から追放されようとしたとしたとき、三樹彦自身が作った俳句に由来してのもの。
   正視され しかも赤シャツで老いてやる   伊丹三樹彦
この俳句の思考に、当時の若者も一緒に立ちあがつて俳壇への抗議をした。そして俳壇を変革させた一句なのである。そしてまたくまに俳壇に若者たちが増えてゆく原点の俳句であった。