わが思い出の神戸……北野坂(再掲載)

            私個人のメモリアルページ

              児 島 庸 晃

 神戸は坂の街である。元町より下山手通中山手通り山本通りを斜めに横切るとこのあたりより坂の道に出る。更に先へと坂を上ると北野町に出る。洋風建築のテラスがまぶしく輝く。風見鶏のある館が目に届く。かって私はここへ何回も鬱を棄てに来た。

   はるかぜにとびのる構え風見鶏     児島庸晃

人間関係に疲れ果て現実の社会にもついて行けず、身も心もボロボロになったとき一人きりの時間を求めて佇んでいた。20代後半の青春期をこの坂道を歩くことによって心を癒していたのだった。

 この思い出の坂道を今ゆっくりと上り、眼前の海原を見ている。今しがたまで覆われていた霧はいつか姿を消していた。青い海が、そして坂の上に暖かくある春林が私をかっての青春へと誘う。

   死んでもいいなど 云い合う 霧笛のおおんおん  坂口芙民子

坂口芙民子。この人の俳句が思い出されていた。昭和39年第7回青玄新人賞、後に坪内稔典攝津幸彦らを集め俳誌「日時計」の発行人でもあった。

 オノマトペ、リフレイン、そして青春のナイーブな感情を新文体で表現していた。楠本憲吉の経営する「なだ萬」で働き、その後ファッションデザイナーへと進む。この音楽性を採り入れた話し言葉は当時の私の鬱を救ってくれたのだ。

   どうしてさびしい眼なの と海のしーんしーん  坂口芙民子

 それは軽やかに時には切なく訴えられた女心の真の告白にあった。正に青春そのものがあった。これらを表現するにオノマトペやリフレインは文体改革に欠かさざるもので新表記へのパイオニアでもあった。

 今日一日この北野町の坂道に立ち過去への扉を開いていた。もう日も暮れかけようとしている。いま83歳という年に達して青春は思い出だけになったが青春の俳句だけは確実に残る。…そう思いつつ坂を下っていた。