生活人としての意識や認識を社会へぶっつけて生きてきた……俳句の心

         今日の感動は明日の感度と同じものではない

                児 島 庸 晃

 俳句にとって。俳句を書いてゆく行為はアドリブ表現以外にない。感情表現をするとき、感動は、その場、そのとき、思ったままの表現をしなければ二度とそのものずばりの表現はない。生存してゆくための人間生活を続けているかぎり、今日の感動は明日の感度と同じものではないのだ。今日だけの感動である。明日は明日の感動があるだろう。ぼくは必死に思うのだ。生きているよろこびやかなしみをもっともたいせつにしなければならないのは、この純粋感動を出来るだけ長く、出来るだけ強くもちつづけていたいからではなかろうか。

 生活人としての意識や認識を社会へぶっつけて生きてゆくとき、なんらかの衝撃が起る。起ったときの社会に応じて、ひとびとは自分なりの行動をしてゆくのだが、アドリブは起った行動のなかにあって、いろんなひとたちに意志を示唆する。この示唆行動を感情にとりこむとき、アドリブは生じてくるのである。ぼくはこの瞬間の感動を俳句にとりいれてこそ、生活者としてのアドリブ表現が生まれてくるのではないかとも、思う。即興性という単純な意味ではないのである。

  ・アドリブ表現としての文体

 アドリブとは、もともと音楽演奏の中から生まれたことばである。各各の違った音の重ね合いによって、異質のリズム感を作り出してゆくものなのだが、この不思議な音は実にめりはりのきいたもので、ひとの感情に微妙な心を残してゆく。もともとの楽譜にはない音であって、その場のムードによって演奏家の心を響かせる。さらにぼく流の考えではあるが、アドは広告ということでもあって、リブは、よりなになにらしくということではないかとも思う。…ということでより広告らしく、もっと広告ぶる、もっと適確に強く大きく、表現するという意味ではないかとも解したい。語源はともあれ、いろんな感情表現のなかで、現代の時代の流れにもっとも適した表現として、俳句のなかにもあったことだけは確かである。

 たとえば俳人伊丹三樹彦のアドリブ表現は、その昔、新興俳句のころにさかのぼらねばならない。そのころ俳誌「旗艦」の俳人たちは連作俳句の真価と日々たたかっていた。「噴水」で知られる喜多青子をはじめ、多くの人が可能なかぎりの方法をもって挑戦していた。このころ三樹彦のアドリブ表現は開花したのではないかと思う。西洋の象徴詩への接近によって花鳥諷詠俳句からの脱却をはかった当時の俳人たちと同じように純粋に自らを見つけようとするところから始まっている。

 

 俳人伊丹三樹彦昭和十二年、工業学校を卒業して七月、神戸市経理部建築課に就職。この職場で「旗艦」同人、松代嶺子を知る。職場俳句を起こし、「旗艦」への投句がはじまる。これまでの岩田笛秋の俳号より伊丹三樹彦のペンネームへと改め、当時、旗艦の初学欄「輪型陣」の選者であった神生彩史に接近、ここで異性と俳句を論じるという修行を受ける。神戸三宮から山手にかけてのバー巡りが日課となってゆく。しかしこの日課は軍隊への門をくぐらなければならないという刹那の思いの毎日に耐えきることの出来ない青年の心であった。好きでもない洋酒を飲まなければいまの自分自身をささえることが出来なかったのだ。

   ジンわっと舌にひろごり恋遠き    伊丹三樹彦

この三樹彦の句の、このせっぱつまった心の叫びは真実である。身をもってぶっつかった少年の日日に、この日の、この感動は忘れることのできないアドリブであった。

 現代派の俳句にとって感動は直情ではない。放心でもない。生活の一端にあって常に自分自身にはねかえってくる純粋性である。食事をするときに箸を使うように、物事にぶっつかったときに即座にはねかえってくる感動を出来るだけ長く保持しつづけることの出来るような文体としての俳句…これをアドリブ表現という。物によって触発された感動であってあたりまえのことなのである。だがだれも三樹彦の感性をアドリブ表現の原典だとは評価しなかった。ぼくは三樹彦作品の連作は新興俳句時代の典型をも再度認めなおそうとしているかにも思えるのだ。同じ素材を扱っても、そのとき、その場の状況に応じてどのようにでも感受でき、どのようにでも表現できる。人間の心そのものの真実は、いろんな角度を変えた視かたによってしか追い求めることはできないのかもしれなのだ。

 いま改めて伊丹三樹彦の句を問うてゆくときひとつの大きな意志みることができる。三樹彦はその意志のほどを強調する。感動とか表現の問題について説くのだ。

「俳句の制作は普通、対象に触発されて詩的感動を覚える…といった過程を経るものだ。従って、俳句が作れない場合の原因も前者の感動(把握といってもいい)か、後者の表現(造形といってもいい)か、或いはその両れもか、にある訳だ。…略…そうして作れない原因がつきとめられたならば、自ずと、対応策も生まれてこよう。例えば前者の場合なら日常生活の窓から跳び出してみるとか、後者の場合なら、古今の愛唱句ノートを調成してみるとか、する類だ…(青玄117号)」

 昭和三十五年、八月、ぼくは「青玄あとがき」で、三樹彦の意志をはっきりと頭に叩きこまれたのである。感動←→表現、この間にある実作者の意志にこそアドリブの原典ではないかとも思う。対象物に作者がとりつかれたとき、対象物から何かを語りかけてくるまでシャッターを切らないという写真家の話をいまさらのごとく思い出す。時代は変わってゆくかもしれないが、生活人たちの生きているための感動は変わろう筈がない。三樹彦における意志や態度をも変わろう筈がない。たとえば青玄213号発表作品「寝棺の母 位牌の母」にはアドリブ表現としての可能なかぎりの真実をみることができる。

   隙間風 薬の果てのいびき老母

   追っても 追っても 鴉が啼いた 母が死んだ

   段々飾られ 天井近く 寝棺の母

   遺族ら若い舌打ち 通夜の穴子汁  

   寒く笑って 通夜の線香の継ぎどき知る

   棺の母に 最も近寄り 一枝供養

   喪主ぼくの途上へ 寒い眼 佇む眼

   母焼く煙とも分れる雪坂 乱反射

   駆けつけ隠亡に かぎ渡す 手の温みごと

俳人伊丹三樹彦この連作のすごい迫力、これはアドリブ的発想である。物を見て、考えて、練り直してという暇などない。即ち感動そのものなのだ。だが感情におぼれてしまっては泣きごとになってしまう。しっかりとした批評眼をもちあわせていて感動が共感となってゆくのだ。

 昭和四十四年ごろ、三樹彦のアドリブ表現のすばらしさに、ぼくはいくどとなく教えられてきたように思う。そしてぼくも試みたが成功はしなかった。心と技が一致しなかったからである。三樹彦はことさらアドリブを意識しているわけではないだろうし、それほどまでに考えてはいないかもしれないが、少年の日のぼくには三樹彦のアドリブはあこがれの的であった。なによりも感激したのは次の四句であった。

   折からチャイム はらら はららと麦蒔く指

   貝など拾って あれは墓だか 石ころだか 

   ジンタ裏でだ 象番老人 あぁ! 耳ない

   サーカス最前列 象が糞まる おお愉快

アドリブの極みである。ついに三樹彦のアドリブは「あれは」とか「あぁ…」「おお」などの初語本能となって現われてくる。これはなにもびっくりしたための表現ではない。むしろ最初の驚きを的確にしたいからであった。

 アドリブ表現―これはまさに現代派に課せられた宿命的闘いなのかもしれない。モダンジャズのアドリブ表現のように、視点をかえてゆくことによっていくらでも新鮮な表現やコトバが生み出されてくるものではないだろうか。