児 島 庸 晃
毎日、毎日いろんな俳句の総合誌、それに同人誌や結社誌を読んでいて不思議に思うことがある。現代という社会生活のなかに生存していながら、社会感覚や生活感覚のうすい句のなんと多いことか。個人の生活を詠うにしてももっと心の底へつき刺してくるエスプリがあってもいいのではないか。不思議でならない現象なのである。短詩形をはじめとして、文化的な創造の遅れはなんとしてでもとりもどさねばならない。いまの生活が理性を先行させるために感覚的なことがらを考えるゆとりもないのかもしれない。自然に身についてしまった生きるための技術は文化的創造を遅らせてしまったのだ。いまや大メーカーのオフイスは理性先行族のあつまりだそうである。しかしその多くが無用の人間になりつつあるとか。びっくりするのだがこのような本があちらこちらで出回っている。商品販売競争のなかで勝ち抜くには理性だけではどうにもならないものがあるらしく、いまや感覚的人間の養成が急務だという。人間の生活感や社会感というものが必要なのである。わかりやすくいうと感性人間の誕生を望む声がいろんなところで聞かれるのである。このことはなにも産業界だけのことではない。俳壇でも同じことである。理性先行形の俳人が急増しているのである。理性が先行すればどういうことがおこるか。考えるまでもないことだが、理屈っぽくなり、無感情になり、コトバがギスギスして詩にならないのである。一方、感性は人の心をうるおす。豊かにする。表情のよろこびを広げてゆくのである。その感性とは五感のこと。つまり視覚、味覚、聴覚、触覚、嗅覚のことであって、このうち俳句は視覚が80%を占める。感情のほとんどなのである。よって俳句は生活にうるおいをもたらし、生活力を強くする感情を育てる。俳句はもっとも生活に即した文学なのである。しかしいま俳句はますます理性的であろうとしているかの動きなのだ。どこかおかしい。もっと感性を必要としなければならないのに理性先行形俳句の流行なのである。俳句集団「歯車」は…昭和三十三年より、鈴木石夫指導のもとに、より感性的であろうとしてきた。もっと現代の感情を大切にしようとしてきた。現代の生活にそった文体たろうとしてきた。
その頃の作品より、抜き出してみよう。
空で撒かれ蝶となるビラ労働祭 荒池利治
プ―ル光る汚職の街の一角に 荒池利治
恋人たちへレモンのような街灯照り 荒池利治
陳列窓へ個々のさびしさもち集まる 荒池利治
これらの句は荒池利治の十九歳の頃の作品である。当時はこのような現代文体の句は、何処の結社にも見受けられなかった。荒池利治は伊丹三樹彦と鈴木石夫に師事し、当時の俳壇を牽引してゆくのだが、その後、句を作らなくなった。後年六十歳を過ぎて「青玄」に復帰、新人賞を受賞するも結社の解散終結。いまは目と心臓の疾患で苦しむ日々。だが、これらの句の功績は「歯車」の発展過程の貴重な資料として残っている。
初刷りがプンプン匂う朝日が匂う 吉田文夫
みかん一房ふくみ「幸せ」かみしめる 吉田文夫
吉田文夫さんの句である。「歯車」の前身「風」の創始者。このみずみずしい新鮮さ。生きている実感を俳句でもって示した生活の美しさ楽しさは大切であった。
当時の俳壇は若者の思考が容易には受け入れられる雰囲気ではなかった。そのようななかで鈴木石夫は、石夫自身の心を、個々の俳人に押し付けるようなことはしなかった。多くの結社誌は、この若者の思考を認めしようとはしなかったのだ。
…このような当時の情勢と必死に闘っていたのが、僅か12ページほどの俳句集団「歯車」であった。ほとんどが十代、二十代前期の若人であった。指導者…鈴木石夫は主宰者ではなく助言者として、若人と同じ目線で、若人の心となり俳句への応援をしていた。その主体は現代の俳句文体としての指導であった。現代人の心としての感性を磨く感覚俳句であったように思う。
生活の実感、そしてそこより生まれる感性は確実に若者の心を感覚に育てていた。私は当時の青春俳句を、俳壇は良しとはしなかったことに、今でも些かの反発を覚えるのである。写実主義の必然が、俳句の常道のように思われていて、情感の突出した言葉の表現に対しての心の操作は、あまりにも異質のもののように避けられていた。
当時、この文体改革に着手し、その運動に積極的に乗り出したのは、伊丹三樹彦と鈴木石夫のふたりであった。そして多くの若手俳人を生み出している。三樹彦の門下からは、摂津幸彦、坪内稔典、鈴木明、諧弘子、伊丹啓子、松本恭子、澤好摩、味元昭次、児島庸晃(照夫)。鈴木石夫の門下からは、酒井弘司、永井陽子(後に短歌に転進)、夏石番矢、林桂、松下道臣、萩澤克子、それにいまも「歯車」で活躍の方々。ここで当時、問題を投げかけた句がある。私の句で全く申し訳ないのだが…。
し―んとつ―んと朝 ず―つと枕木の風景 児島庸晃(照夫)
あなた確かめた炎の舌がある 暮色の町 児島庸晃(照夫)
ビルの谷間で赤茶ける恋 ぼくのト―ン 児島庸晃(照夫)
これらの句は既成俳壇では無視。これが当時の常識でもあった。全くの異質のものだったのだろう。何時の間にか私は異能俳人にされてしまっていた。もっとも破調であり十七音は越えている。だが、現代語を使うと従来の定型では収まり切れないものになってきてしまう。その疑問が私に…あった中での俳句作りであった。多くの俳人の反対する中で認めて頂いたのは、伊丹三樹彦と鈴木石夫であった。
その後、二十年ほどして俳壇は一変する。俵万智の歌集や松本恭子の句集が世間を圧巻してゆくのだ。松本恭子の句集『檸檬の街で』は一般書店に並べられ一週間も経ていないのに三万部も売れるという状況を作る。購入したのは俳句を全く作ってはいない読者であった。世間が既成の俳句に対して、文句は言わないまでも不満を持っていたのが現実のこととして問われる事態になる。大変なことが起り始めていた。恭子は週刊誌の俳句欄の選者に迎えられ、テレビに俳句のコーナーが設けられ、一般からの俳句の募集が始まり、そこで俳句を語ることになってゆく。国語の資料集にまで作品がとりあげられるまでにも…。俳句が普段俳句を作っていない者にまでひろげられたのだ。恭子の何が一般読者の心をとらえたのであろうか。次の句を見て頂きたい。
恋ふたつ レモンはうまく切れません 松本恭子
青いセロファンに巻かれて 月夜の鳥 松本恭子
さか立ちしたら涙溢れる 六月は 松本恭子
檸檬シュパリ カリ わたしの敵はわたし 松本恭子
無鉄砲なの 寒のれもんを下さいな 松本恭子
日常の生活心情が俳句を作ることによって、心のどこかで救われてゆくことを、松本恭子は心得ていたのだろう。ずばりその場、その時の臨場感だったのだろう。長崎より出てきて京都で学生生活をする身であったが、入退院を繰り返す日々。その後、散文の方への転向。テレビ局からのシナリオ依頼があったそうだが。私が大阪シナリオ学校の卒業生と知ってか、話をされたことがあった。
こんな時代の変遷を支えていまも俳句集団「歯車」があるのは何であったのだろう。それは臨場感であった。アドリブとしての表現であった。アドリブ表現は純粋感動の現われであり、心の真実感でもある。鈴木石夫が一貫して追ってきたものは感性俳句であったと思う。それそのものが臨場感でありアドリブ表現であったのではないかと思う。
それぞれが目的をもって一定方向へ進んでいながら、ときとしてとまどうことがある。こういうとき心の内を 少しでも表現したいと思うのは人間にとってむなしい行為なのかもしれないのだが…。
俳句にとって…この行為はアドリブ表現以外にない。感情表現をするとき、感動は、その場、そのとき、思ったままの表現をしなければ二度とそのものずばりの表現はない。生存してゆくための人間生活を続けているかぎり、今日の感動は明日の感度と同じものではないのだ。今日だけの感動である。明日は明日の感動があるだろう。私は必死に思うのだ。生きているよろこびやかなしみをもっともたいせつにしなければならないのは、この純粋感動を出来るだけ長く、出来るだけ強くもちつづけていたいからではなかろうか。この感覚が二人の俳人、鈴木石夫と伊丹三樹彦にとっては既成俳壇の反対を押し切ってまでも最も大切なことであったのだろう。