私のこころの風景

          日々の日常生活より心に残る句 

                 私の句集「風のあり」抜粋

                     児 島 庸 晃

  こころの風景① (平成20年6月8日記述)

   風 音 の 足 音 に 似 て 五 月 く る

この句は仕事と日々の生活に疲れ果てていた平成20年の句である。たまたま休日がとれた。神戸北野町へ心を安らげようと家を出る。阪神電車元町より北へ3キロ。坂を上り途中海を見る。神戸港が一面に。忽然と風が私へ寄ってくる。正に私の心を癒す五月の風。風音はリズムを奏でる。それは私の心を休める5月の風。また、新たな明日への力を貰って一歩一歩北野町の坂を下る。12年も前のことだが今も鮮明に頭に残る句である。

   枯 野 に は 舟 の か た ち の 風 の あ り

この句も平成20年の句である。残業が百時間を超える頃だった。とにかく私の身体を休めたくどうにかならないものかと思考する毎日だった。私の職場は神戸市垂水区施設の防災センター勤務であった。24時間勤務。火事・防犯・災害の予防と管理である。毎日管理機器の監視と巡回と言う、高層ビルでの仕事。神経の休まることのない24時間の集中。こんな私にとって俳句は私を私らしくする心回復の道でもあった。

そんな私の通勤途中の風景は俳句の場所だった。或る日樹木の揺れ動く車窓からの姿に私の日々と重なる心を受け取る。その揺れ靡く姿こそ舟のかたちそっくり。私の人生の来し方そっくり。私の全てが凝縮されているように思える。その風は私自身であった。

  こころの風景② (平成20年6月10日記述)

   垂 直 に 冷 え を 際 立 て 行 く 背 中

昭和59年の⒉月中頃の句だとの記憶だが、何時までもどうしても私の心の奥深くにしまっては置くことは出来ないことなってしまっている実体験の句である。

ああ! と声が出るとその男も、おお! と答えた。2年ぶりのことである。乳母車に乗せられるだけの資産の荷物を置きゆっくりと押していた。その男へ哲っちゃんと声をかけると顔を上げて笑った。私へ向かって…。やっぱり生きていたのだ。

今日は天気がいいので武庫川の空気をいっぱいに吸いたくて家を出る。500メートルほど行くと土手があり、それを越えると河川敷である。河口から上流へと川を遡行して歩く。あっ…哲っちゃん。この男、2年前に小説にした「河川敷の哲っちゃん」であった。全くの偶然であった。乳母車を止め一段下の河川の水際へ行き荷物の一部を降ろしそれに火をつけた。生活の塵を燃やし過去を棄てると言う。河川敷はれんげ、蓬、タンポポ、それに青葉若葉の季節のいま、私はマイナスイオンを身体に浴びたく歩いていた自分の行動を恥じた。ここにはいまもまともな家に住めない人がいて100人近く野宿していることを忘れていた。咄嗟に私は小説の書き出しを思い出していた。

「冷たい雨の日だった。お願いだから死なせてくれ。私の手を掴み必死に懇願する男。名前は哲っちゃんと言う。足首にくくりつけるコンクリートブロックを抱え水の深みに入ろうとしていた哲っちゃん。その時私の手を振りほどき水に飛び込んでいった哲っちゃん。水面から首だけが出た姿を私は必死な目で追った。 

   日 向 へ と 風 が 冬 蝶 つ れ て ゆ く 

平成元年、1月7日天皇崩御により、時代が昭和から新しい年号へ。この句は2月20日頃の句だと記憶。何時ものように武庫川河川敷へ。心の癒しを求め出かける。季節の香りが敏感に私を癒してくれる。ほんの些細な楽しみや心の温かさを探して歩くところが武庫川河川敷であった。その日ふと目にしたのが冬の蝶であった。凍てつく地面に落ちていると言ったほうが正しいかもしれない蝶の姿を見つける。一瞬もう息をしていないのかとも思った。拾いあげた掌の上で動いている。私は目を大きく開いて何回も見る。何度見てもその羽を動かしている。ほっとした私。躊躇している私。しばらくの時を経て風が流れてくる。そのとき私は再びほっとする。その風が冬蝶を日向へと運んで、その冬蝶もやっと命が救われたのであろうと、私の心も温かく救われた思いでいっぱいであった。このことがあってから、武庫川河川敷へ散策が楽しい日々の、原点になった句である。

  こころの風景③ (平成20年6月11日記述)

   父 の 日 の 父 の 貧 乏 子 に 詫 び る

この作品は昭和48年の句である。街には「神田川」の歌がながれていた。南こうせつの語りかけてくる言葉と曲に心の救いを求めていた時代であった。私の生活も家賃を支払うと、給料の残りでは暮らしてはゆけない時代であった。長男10歳。長女6歳。子供たちは元気だったが、私の心は真っ暗だった。そんなある日だった。夕食時、私の目の前の食卓に小さな包みが置かれていた。それは子供たちが少ししかないお小遣いの中からふたりで出し合い買ってくれたプレゼントのハンカチであった。その日が何の日であったのか、全く思いつきもしなかったが、子供たちは父の日であることを心得ていたのである。思えば親としての子供への施しは何もしてはいなかったのである。子供の暖かな気持ちに感謝しつつも、父の貧乏を二人のわが子へ誤り続けていた。また、この日は三度目の次の家へ引っ越すことが決まっていた日でもあった。その長男は家の柱につかまり、ここが僕の家だと離れなった記憶がよみがえる。世の中全体が貧乏な時代だった。その長男もいまは一児の父である。

  五 月 の 空 へ 唇 ひ ら く 笑 う た め

昭和34年、高校卒業の年であった。何をするにも自信はなく、生きていることすら鬱に思える日々だった。母だけの母子家庭である。高校三年間はアルバイトの毎日だった。大学にも行けず、やっと卒業も就職の決まらないことの続く日々。当時は就職も両親が健在でなければ主だった企業へは就職出来ない時代であった。私は笑うことを忘れていた。日々の生活の続く中でフランス映画をよく見に行った。心の隙間をフランス映画の洒落た明るさでカバーしていた。その映画を見ての帰りだった。五月の空一面の水色に目が吸い込まれていた。全てを忘れて心から思いっきり笑っていた。いま思い出してもとても辛い心の時代だった。