作ってはつぶす 机上の小さな革命旗 児島庸晃
終戦、それも敗戦という昭和20年8月15日。その日から始まった過酷な日々との闘いは飢えとの戦いでもあった。終戦前の6月私達は別府港より宇和島港へ、宇和島港より疎開先へ向かうバスの始発駅へ。そこでのすさまじい食料の奪いやいは幼い私のおにぎりまでもとられることになる。そして疎開先の南宇和郡内海村須ノ川(今は愛南町)へ。そしてこの地における食料との戦いは飢えとの闘いでもあった。毎日、草を食べ、木々の皮を食べ、終戦を迎える。こんな田舎村に食料の配給などは届かなかったのだ。…以後復興への懸命な努力がなされてゆくたびに人々は心に小さな願望を持とうとした。何かを求め前進するために机上に小さな革命旗を立て、そして壊しまた作り続けねばならなかった。掲示の俳句は当時を思い回想の句である。
さて、この頃プロレタリアートの作家たちはこの現実と如何に闘ったのか。
俳誌「層雲」のなかでは大きな混乱が起きていた。萩原井泉水と「層雲」編集の小沢武二との間には思考する方向が違ってきていたのだ。これは小沢武二の句に対する批判が起きていた。「もう目の前の巡査を相手にするほかねいじゃねえか」に代表するものであった。この意見のくいちがいはますます激しくなり、ついに昭和5年には「旗」の創刊となった。この「旗」には橋本夢道、神代藤平を中心とする井泉水に反逆的な江東グループ、「層雲」の林二を含む学生グループ、それに前者のどちらにも属していない栗林一石路、小沢武二がいた。
みんなきょうの泥靴でだまりこくっている
何もかも月もひん曲ってけつかる
冬空のビルディングの資本の攻勢を見ろ
これは当時問題になった一石路の俳句作品だが、ユーモアやアイロニーの強い句を見ていると単なるスローガンではないかという気がした。まことにスローガン的ではあるが根底に流れている精神的なものはやはり疲れきった昭和の背景を多く含んでいて、くさみがある。底辺には時代のくさみみたいなものを持っていた。これを正統に解釈すれば、これを名指して俳句の象徴とか、暗示とか言うのかもしれない。しかし私はどうもこのくさみが気になってしょうがないのだ。文学という意識にたって物を見る場合、文学本来の必死な人間との闘いが、時代の中へくいこまないで、地球のまわりをくるくる回っている衛星のように見えてしようがないのである。それは生活に追われ俳句どころではなかったのであろう。
あんな血色のジュース立ち飲む 米兵いる 児島庸晃
戦後の責任…それはひたすら働くこと。働くことによってのみ幸福になれると信じて生き抜くことが国民に課せられた義務でもあると思った時代。食べるものも着る物もない時代。村人は挙って畑を耕し山へ入り資材の大木を売ることに懸命であった。そんな敗戦の村にGIと呼ばれるアメリカ兵はやって来る。ジープに何人ものパンパンと呼称する女性を乗せ村中を走る。そしてガムを投げてみせる。「へーゆう」と言葉をはき棄てる。幼い私は無性に腹が立ち何回も睨み返していた。誇らしげにトマトジュースを飲むのだ。そのトマトジュースはやたらと血の色に見えていた。
戦争に至る過程はいろいろあるにしても昭和5年ごろよりのプロレタりアートの作家たちはひたすら抵抗し続け階級闘争の武器になろうとしていた。ために俳句らしからぬものへと驀進してゆく。そのへんのことを名古屋から出ている「営」の同人、門馬弘司は「私考現代俳句考」の中で、定型、非定型を含め多種多様の主義と作風をもつ作家たちにとって反伝統、反ホトトギスは情勢論として結集の契機とはなっても、文学運動としての統合された理念に欠けていた、と結論をだしている。
いま私はこの歴史的事実を追いながら、いろんなことを考えてみた。定型の問題、非定型の問題、象徴の問題、暗示の問題、そしてこれらの作家がもっとも大切にした労働者自身の民衆の生活の問題、どれひとつとってみても欠かすことの出来ない大切な問題なのに、これらの作家たちは比較的気楽に自己のイラストレーションをおこなっていたような気がする。労働者自身の危機感を俳句という定型詩のもつ感覚と、言葉そのもののもつリアリズムとしてのもろもろをうまく合致させなかったところに、ぎらぎらとした言葉のもつ浮つきがあったのかもしれない。単にプロレタリア的といったにすぎない。文学としての価値観まで読み込んでゆけないものたりなさを覚えてしまう。そんな私感をどうすることも出来ないでいるのである。この思考は現在なおも変わってはいない。
野の菊の汚れぬ色を遠く見る 児島庸晃
飢えは極度に達していた。何かを食べなければ死ぬ。ひたすら野や山を歩いた。敗戦の迫り来る村の毎日であった。幼い私は母の手を握り母の後を追う。そこここにある食べれそうな自然はかたっぱしから狩りとられてゆく。殆どの雑草は食料にかわってゆくのだ。そんなとき目の前にある6月の季節はずれの菊は実に美しく思えた。母は言う…この菊は食べないでおこうよね。見渡すかぎり何もない野に咲く菊。あまりにも美しかった。いま思うに心まで汚れきっている人々にこの汚れぬ色は大切であったのだ。そして傍にありながらも遠くに見るという存在でしかなかった。
さてプロレタリアート俳句のいろんな批判が高まる中、俳句は他の文芸ジャンルにも影響を及ぼし歌人たちとの動きにも密接に関連してゆく。昭和6年を過ぎるころからやたらと短歌の形式崩壊が始まり散文詩に近づいてくる。いわゆる形式が内容の壁になっていては階級闘争は出来ないということであった。短歌が形式論の解消を提唱すると、この自由律俳句はついに10行、15行という、まるで散文詩とかわらないものが俳句となって出て来た。俳句も短歌も詩も区別がつかなくなる。ついに昭和7年俳句解消論まで出て散文詩がはばを効かし始めた。そのころよりプロレタリアート俳句は力の弱い存在として生きつづける。その後5・15事件、小林多喜二の獄中死など、特高のいたでにあいプロレタリア作家同盟ナップの解散。、プロレタリア文学の衰退と共にプロレタリアート俳句も滅び個人の生活を詠う方向へと転身してゆく。
このようにプロレタリアートの運動は社会主義リアリズムを追求してゆくうえで労働者の関与を如何に得るかにある。同時に社会主義リアリズムの中で主体を如何に生かししてゆくかにある。そして目前の現実を如何に把握するかにあった。横山林二の規定した言葉によれば「動的リアリズム、または社会的リアリズム」であり、世相を素材としてとらえることにつきていた。ここに自由律から出発したプロレタリアート俳句の失敗が確かにあった。