俳句の表現においても顕著なまでに心の動きが見えていなければならない
児 島 庸 晃
俳句黙読に関し、その緊張感・臨場感の持続時間は一分間以内である。この間に俳句そのものが理解・もしくは心に受け止めるだけのもの…緊張感・臨場感が得られなければ、その句は選句から除外されるのでは、と最近になって私は思うようになった。このように思考するに至った理由だが、時代に於ける環境の急速な変化がある。時代の流れに沿ってわれわれが順応してゆくのに大変な心配りが考慮されなければならない生活の毎日であるからである。
翻って、いまここで伝統俳句より現代俳句へと、俳人の心変わりが増えている原因も、この緊張感・臨場感を思うと理解出来る私になっていた。ここには人間關係への配慮がなされなければ生きてはゆけない心理の彩がある。句の表現においても顕著なまでに心の動きが見えていなければならないのである。心が浄化されていなければ受け入れられないのである。所謂、俳句のポイントが人間本体中心になってきたからである。伝統俳句に於ける季語中心という考えが、人々から遠ざかろうとしてゆく現実社会の厳しさを私は思った。最もその季語は、その原点は自然の中における人間の生活に基づいて生まれたものであり、大切に扱わねばならないのだが、季語が全てとはいいきれなくなっているのである。
緊張感・臨場感は混沌とした時代だからこそわれわれ俳人個々に対して求められているものでもある。何時も思うことだがテレビを見ていても、なんの面白みも湧いてはこない現実がある。何故だろう。昔は映画館に行きじっとスクリーーンを見ては何度も感動を貰っていたのに…。テレビと言う場面では喋っている会話の言葉と画面が結びつかないのであろうか。言葉というものは、その言葉からそれぞれのイメージを連想するものである。ところが言葉と画面が分離してとけあわないのがテレビである。その点、ラジオは言葉だけで、イメージがいろいろと広がり、想像をひろげてくれる。…俳句も言葉とイメージが結びつかなければ、面白くはないものになるのである。緊張感・臨場感が湧いてこないからであろう。
両の手で子の顔包む夜の秋 春田千歳
句集『蟬氷』平成28年現代俳句協会発行より。この句のポイントが如何に緊張感・臨場感をもたらしているのかは作者に聞かなくてもわかるほど明白である。この「顔包む」は作者の心が一点に集中して注がれていることが、この句を読むものには凄い愛情として伝わる。・・・これが緊張感・臨場感である。言葉とイメージに対する作者の姿勢は句を作すときの心の動きに依存する。句に対する作者の真剣さは精神の緊張を伴うものである。娯楽俳句には緊張感・臨場感はない。
では、緊張感・臨場感とは何を指していうのだろうかとも思うのである。
実用日本語表現辞典によれば、緊張感とは張り詰めた心、注意深くなり気持ちが高ぶっているさま・・・と書かれている。
インターネット「増殖する俳句歳時記」2016・8より、この句を作した時の心境…心の痛みがどれほど作者を苦しめていたのかを思うと、私は私の心中においても張りつめた心を押さえきることは出来なかった。事ほどにこの句を知った時の気持ちの高ぶりを抑えきれなかったのだ。ここには歴然とした緊張感を呼び起こす必然性があったからである。何故ならば、作者の記述文の中に私を感銘させた心があった。
……戦後半年を経た夜の広島駅を列車で通ったときの記憶では、なんという深い闇のありようだろうと、いまでも思い出すたびに一種の戦慄を覚えることがあります。あの深い闇の中を歩いてきたのだと、民主主義の子供世代にあたる我が身を振り返り、歴史に翻弄される人間という存在に思いを深くしてきた人生だったような気もしております。
作者の、当時の、この事実体験は心中に突き刺さっては心を高ぶらせていたのだろうと、私は思った。これこそ緊張感・臨場感である。それは「広島駅の闇」と限定した固有名詞の表現言葉の確かさにあった。「広島駅の闇」と言う、その作者の心の有り様に緊張感・臨場感が表現出来たのであろう。
冬の日の一本道を影連れて 鳴戸奈菜
『現代俳句年鑑』平成29年度版より、この句は寡黙なある日の作者が自分自身との対話をしながら「冬の日の一本道」を歩いているのである。それはそこに作者自身の「影」を見つけた時に始まる。宿命のように「影」を引き連れているその厳しさを解き放つことが出来ないでいる時の虚しさを持ち続けているようにも私は思った。この文章を書いている私自身も感じるところの虚無感を作者も引き連れて生きてゆくのだろうと。…そんなように思えるほど言葉とイメージはぴったり溶け合っている表現なのである。言葉から広がるイメージの連想は緊張感・臨場感を伴うものである。ここに登場する「冬の日の一本道」は人生の「一本道」なのかもしれない。日常のある日ある時のごく普通の生活の中にも、作者にしてみれば、何時ものように緊張感はある。これは本物の緊張感である。
言葉からの連想イメージが浪漫へとひろがり心との葛藤が必死に切迫詰まってくると、次の句のような緊張感・臨場感が生まれる。これはもうどうすることも出来ない悲しい緊張である。
一枚の落葉となりて昏睡す 野見山朱鳥
現代俳句協会「データーベース」よえり抽出。この句、溢れんばかりの真面目さが、人間としての味になり、「一枚の落葉」に注がれている。この時の作者の一途な暖かさが、この句を受け取る私の目を通して心へずしりと重い緊張感が乗っかけてくるのである。この句の緊張感や臨場感を強めているのは「一枚の落葉」と作者が一対になって溶け込んでいる仕草であろうと思う。この擬人化の手法は緊張感や臨場感を表現するに最も効果のある方法であるように私は思った。
その擬人化だが、作者が目視する際に作者に最も近い部分を興味の対象に選ぶことが多いことから、非常に親近感が盛り上がるのである。その時の心は目視の対象物との間に葛藤や摩擦が生じている。この心理は複雑に揺れるもの。この状態を臨場感と言う。故に臨場感は大切にしなければならない。
秋雨やプラトンのごと歩く猫 玉井 豊
俳誌「歯車」375号より。この句だが説得力の凄さを感じる。句を受け入れる時に、不思議と心に残り、その心にへばりついて離れなくなる句である。…そのような時の多くは説得力の凄さを感じるものである。説得力の強くある句は臨場感を感じさせてくれる。この句に登場する目視は「猫」。なんとなくいろんな仕草をしてくれる臨場感なのだが、作者には哲学者の「プラトン」のように思えたという、その「歩く」姿勢が。「猫」に託した擬人化表現である。ここには些かな作者の人生おも感じさせることに、何時しか親近感を覚えたのだろう。もははやこれは本物の臨場感である。だが、作者の捉えた「猫」は寂しい「猫」である。そこには「秋雨」が降っていたのだ。私が句を作す時に何時も思考するのは背景をどうするかを工夫する。背景の中で登場物体を動かすのである。これは緊張感や臨場感を引き出し強めることが出来るからである。ドラマや小説の創作の基本姿勢である。…この句は緊張感や臨場感を表現するのに「秋雨」という背景を上手く考慮した本物の人間の味が感じられるものであった。
僅か17音と言う短い句体ながら、その響きは散文の長い文章よりも心を掴む感情は濃ゆい。それだけに一字も一音も疎かにはできないのが俳句である。そして次への展開を想像・想起すのが俳句でもある。それを連想へと繋ぎ、全く予期しない言葉を生み出してゆくのも俳句である。目視では見えていないものまで見えてくるように表現するのも俳句である。
・・・しかしこれらを統一するには緊張感・臨場感がなければ作者の想いや心は繋がらないのである。心に残る俳句の良さは緊張感・臨場感なのである。