人間としてのあるべき生活意識態度が汚れてはいないこと……俳句の心

     自分自身を浄化させつつ自分自身の心を磨いて生きてきた
               児 島 庸 晃
 俳句言葉は作者自身が自分自身へ向かって確認して心を浄化させている言葉なのである。ここには人間としてのあるべき生活意識態度が汚れてはいないこと、そのこと故に「大丈夫」であると自己発見しているソロピース(個体)言葉の浄化がある。俳人作者は現実社会の中で常に自分自身を浄化させつつ自分自身の心を磨いて生きてきた。俳句の純粋性が俳句を長く作り続けてゆくことに如何に大切であるかを思わせてくれる句でなければならない。
 …だが自分自身を俳人の心として保持してゆくことの難しさは、作者本人が一番よく知っている。大変なことことなのだ。
 
   人間に生まれたことを花に告ぐ    和田悟朗
 
句集『人間率』(平成17年8月)より。作者は国立奈良女子大学物理学の教授であった頃の俳句である。この句は作者自身が自分自身に向かって素直になれる心の程を句に作したのだと私は思った。いろんな場でいろんな句を求めてきた過去に戻してもこれ程率直に自分の真心を正直に見つめた俳句を私は読んだ事はない。これぞ人間の純粋性を「花に告ぐ」だったのだ。作者本人の何時もの詩精神の発露であったのだろう。そして「花に告ぐ」の言葉はソロピース(個体)言葉へと発展する過程での自分自身の苦しみを抜けきった状態でもあったのだろう。人間本人に生まれたことへの感謝の気持ちであったようにも私は思う。「にんげんに生まれたことを」は普段の生活の中での真面目に生きている自己を正す俳句言葉の苦しみと挑戦がこの句にはある。俳句の純粋性は一俳人の生活態度まで変革させるものであることを私は知る事になった。
 
 日常生活の毎日にあって何でもないところから、何でもあることを見つけ出さねばならない俳人であることの認識は、よほどしっかりしていなければ、何にも見えてはこないのである。よく聞く言葉に…句が全く作れないのよ…と言う人に出会うことがある。よく聞くと…句の素材が見つからないと言うことなのである。もとになる句の材料となるものなのだが、句を作る意欲は、いくら沢山いっぱいあっても出来ないのである。何故だろうと思考したことはあるだろうか。目視の彼方にある自然や物は数え切れないほど存在しているのに、と私は思う。
 それは物や自然は歴然と、その場に定着しているけれども、それを見ている人間の心は変革されているのである。私達は、日々の忙しさの中にあって、心の品質が壊され、砕かれ、汚れきっているのである。物や自然の姿がごくあたりまえの何でもない事にしか見えないのである。それ故に何事も新鮮な姿には見えなくて瞳には飛び込んでこないのである。
 ここで大切なことは、何時も心の中を空白にしておくことがいるのである。汚れのない心にして純粋にしておかなければならないのである。心が汚れていれば何も見えてはこない。今日の時代に純粋俳句の存在感が強められている理由である。俳句の中にこめられている純粋性こそ、その作者の生きる力でありその俳句を読む人の生きる力へと発展してゆく。