俳句の伝達性とは何なのか

 句会の席で…よく聞く言葉がある。披講の時間がきて最高点句が発表されると、その句についての合評で、問題視されるのが、伝達性の有無である。伝達性は知識や体験、それに句そのものの表現方法によって鑑賞の相違を生むものだが、はっきりしていることは、言葉だけでは作者以外の人に分からせるように思って作っても伝達は出来ていないということなのである。  私が、俳句の伝達性について検証をしておかなければならないと思ったのは、「歯車」355号の…短い手紙…に書かれていた栗林浩さんの次の言葉であった。   「私の検証⑪」を楽しく読ませて頂きました。やはり俳句の作り手に「感動」が必要なのでしょうね。感動して作った句があまり成功しない私なので疑問を持っています。大切なのは作者の感動よりも読者が十七文字から作者の思っていた感動以上のものを新たに創造してくれることではないかと思い悩んでいます。 実に見事な指摘をされていて、俳句と真面目に真剣に向き合って作っておられることが伺えるものでした。一生懸命に、感動したものを伝えようと心をこめて句にしょうと努力して作る。…がほとんどの作り手は、そのように思えば思うほど、句の鑑賞者は理解しては貰えません。それは、言葉だけで理解してもらおうとしているからなのである。分かりやすく言えば言葉を並べているだけだからなのであろう。言葉が生まれるまでの過程には、その言葉に至る動作(仕草)があり、そのことが分かっていなければ、その言葉の伝達は、いくら巧みに言葉を使っても作者の思っている通りにはつながりません。それで動詞や助動詞、または格助詞の補助を得て伝えいるのである。 次の句は、私の作る過程での私自身の失敗句と、それを添削した句である。  (失敗句) 冬襟を翼にしては風さわぐ   (添削句) 翼さわぐように襟揺り寒くない   右の句の何処が伝達出来ていないか、考えて頂きたいのだが、何よりも、私の感動した事柄が読者に、失敗句の方は伝達できていない。失敗句には動作や仕草が表現されていないからである。言葉を並べてあるだけだからである。  生活してゆくのに必要な物事の伝達には、二つの種類がある。日常的伝達と情緒的伝達である。日常的伝達は機能のみを必要として、これはビジネスのみに使用。これは感性を必要としない。むしろ感性の無い方が曖昧さや誤解がなくて良い。だが、俳句においては感性を失くすと人間的な味や深まりが無くなる。…これが情緒的伝達なのである。この情緒的雰囲気を作り出すのは、人の動作(仕草)を伴う。   私がグラフイックデザイナ―をしていたときに伝達性ということで悩みましたが、そこで得たものは作品の大衆性、日常性であった。だが、それでは訴えるための味や深まりが無くなり、誰もみてくれませんでした。最終的に得たものは、人間の身体を通しての表現がなければ、物の伝達は可能ではないことを知ったのである。身体が学習したもの。経験や体験したものを必要とすることだった。具体的には動作や仕草がなければと言ううこと。だから映像を並べられただけの言葉では、伝達が出来ない。 ここで俳句の伝達でのその動詞の使用について、すこし触れておかなければならないことがある。 ある いる 普段はあまり気にしないで、言葉として使用しているが、この二つには、あきらかな違いがある。 ある…は物事が静止している状態。つまり生き物ではない、死の状態の物。 いる…物事が動いている状態。つまり生きている物。  いる…には動作(仕草)があるが、ある…には動作(仕草)はないのである。  このように動詞一つを抜き出してみても、作者が感じた程の感動は、読み手に依存するのではなく、作者が考えなければならない事ではないかと思う。