自分自身に素直で正直な句の素晴らしさ

                                 俳句は素直で正直な心を示すもの

                児 島 庸 晃          

 俳句はたった一行の縦書きの言語、その言語から俳句は人間そのものの深さを知ることが出来るものになるとは…。私は句集「渋」に深く感激しています。節誉さん!こんにちは。句集上梓おめでとうございます。句集ありがとうございます。一句を仕上げるのに俳人は自己表現に苦心苦労するものなのですが、その苦心苦労を素直に受取り素直に表現されていますよね。自分に向かって素直にはなかなかなれないものなのですが、その素晴らしさが句に向かってゆくことの正直さでもあります。一句の持つ心の重さなのだとも思います。またこの心の重さは緊張感、緊迫感を読者に受け取らせて句の本物感にもなります。

   その素直さは一句の中心となり、人間を優しく暖かく包み込みます。つまり節誉さんの句を読み終るそのとき、読者は心が温まり心は優しく素直になれるのだと私は思います。…私がそのように思ったのは次の句です。

   ごめんねが言いたくて秋は白

   白木蓮まっすぐ自分から離れ 

いま社会はデジタルの時代です。人間の本質を考慮すのに社会はそのことの結果のみで評価します。その結果の過程はどうでもよく、そこに至る苦心苦労はどうでもよく、結果が悪ければダメ人間なのです。文学、文芸はその途中の経過が大切なのです。このような社会に在りて節誉さんの俳句は貴重なのだとも私は思います。素直に表現できる心。俳人は自分を表現するのにいろんな試行錯誤がともないます。いまこそ俳人はアナログの心を強くしなければなりません。自分に向かって自分自身が率直になれろ心、それはアナログの思考のように思い、その心は節誉さんの句なのですよ。

そのアナログ思考のように、私に思えた句は次の句も。次の句は私が最も好きな句なのですが。

   蟬氷生まれた朝へ母還す

この句における節誉さんの心の純粋性、これはもう節誉さんの本質そのものだろうと私は思っています。何回もいいますがこの自己表現の素晴らしい思考は、いまがデジタル社会だからなのです。このデジタル社会の中で自分自身を毎日毎日純粋に保つことは容易ではないでしょうが、句に対峙するその保身はやっぱり節誉さん自身のものなのでしょう。次の句にも、それは感じました。

   見過ぎないように見ていた冷たい手

この句には冷静に目視している節誉さんが存在しています。多くの俳人は句心の多くを、その句の中に含む心情としての温もりを求めています。この温もりは俳人自身が素直で純粋でなければ表現出来ません。この句には節誉さんの心の温かさを私は感じました。日常の日々の中に在りて私の心は暖かくなりました。また今日から明日へ向かってゆく勇気と気力を頂けました。

 俳句を詠みその味を受け取るとき、それはその人の心を思い深い親しみのある暖かさを悟るものなのです。句を詠むといううこと、句に触れること、それら全てはその人の人間味に近づくことなのなのかもしれません。私は節誉さんから豊かな心を授かりました。次の句達です。

   捨てるのか一瞬迷う桃の種

   涙出る肉体を持ち螢の夜

 橙は少し難ありよろしいか

 にこにこと吊るし柿になるつもり

これらそれぞれの句には俳句をしている大切な意義や意味を私は私なりに感じ、節誉さんの人間としてのあるべき姿を教えて頂く事となりました。この心を頂けることはとてもありがたいことなのです。

 ここまで書いてきて、いま気がついたのですが、句集の帯に書かれている言葉…。

…その変化してゆくものを心で受け止め「がむしゃら」に生きてきたこれまでとは違った存在の自分をしりたい

 この句集の帯に述べられている心情には、来し方への反省と、これからまだ先への更なる高齢化の影が伺えるようにも感じますが、その覚悟のほどが心の落ち着きにも思えます。私には自分の存在とは心の安らぐ場所としての存在だとも受け取りました。それは俳句をしているからこそ、その従来とは異なる節誉さんを見つけることができるのだろうとも思います。どうかこれからも俳句をしていることの幸せを心いっぱい感じ、その喜びの満足を何時も思い、これからの人生をゆっくりと静かに、そして満足の毎日であることを深く心に残してゆかれることを…。句集を纏めることは大変な作業と心のバランスとの葛藤でしたでしょう。私にまで句集を頂き申し訳ありません。私の感想ではものたりないでしょうが、ほん少し、私の思ったことを書かせていただきました。