私の個人誌「文芸通信」16号

            こころの散歩⑯ 2024年8月

                児 島 庸 晃

 本日16号お届けします。毎号皆様にお読みいただけるだけの温かい内容をとの思いで何時も編集をしています。その都度私の心をお届けしたくての個人誌ですので少しでも、ほーっと心を休ませる瞬間が、皆様にあればとの私の思いです。令和も

もう6年。人間は何が欲しいか。何がしたいか。それを可能にしたものが創造性。この場にある存在価値は今だけ。未来の存在価値が大切。存在価値は変化する。全てがバーチャルになる。毎日の生活における、生きていることがとても困難な時代は一層厳しく生きずらい社会になってきました。そして権力のある者が勝手な振る舞いで世に堂々と居座る社会。生きていることに全神経を集中していなければ自分自身が壊れる時代。よほどしっかり社会を見つめていなかれば人間そのものが壊れてしまう時代。いまみなさんの優しさと温かさに励まされて生きています。みなさんの暖かさと優しさをもっともっと私に与えて下さい。心を開いて日常の現実社会を優しく柔らかく見つめよう。そのためには自分自身を素直に反省し心の浄化に繋がればとの思いです。みなさんの優しさと温かさを下さい。ご愛読をよろしくお願いします。毎回ご愛読いただきありがとうがざいます。 (児島庸晃)

 

  ♡話題になったエッセー私の文章…特集1♡

   インターネットで人気になった心に残る文章より

 

        それぞれの言葉と言葉のパーツを合わせる接着剤

        ……それは心 (連想言葉の接着剤)

  俳句は連想言葉の集合体である。またパーツ言語の集合体でもある。それぞれのパーツがいくつか組み合わさって完成されているもの。それぞれのパーツを組み合わせるには、それぞれの言葉と言葉のパーツを合わせる接着剤がいる。この接着剤が上手く機能しなけば、俳句は完成品にはならない。接着剤は心である。感覚の基本とも言える心情でもある。

 では、その心、心情は、どのようにして生み出すのだろうか。生み出すといっても思考の積み重ねによってではない。それらはしっかりと、物を見ていれば、そこに一つのヒントを得ることが出来る。徹底して物を見尽くさねばならない。

 例えばだが卓上に置かれた「林檎」を見てみなさんは何を感じるのだろうか。…その味を感じる人。色を眼に呼びこむ人。その形の特徴を受け入れる人。まだまだいろんな事を思って「林檎」を見ているのである。人それぞれの興味の関心度は異なる。だが、誰もが見ている視線の先にあるものは同じ「林檎」なのである。でもこの「林檎」の句には、類似句は生まれないのだ。ここが俳句と言う形式の最大の面白さなのである。

そこで何故類似句が生まれないのかだが、みんなが同じ物を見て俳句を書いても、俳人一人一人の思っていることは違うのである。ここには心があり、その心は日常の生活姿勢に起因する。私性の文体が文学には必要だと思われる所以でもある。かって、鈴木石夫先生は…これがわたしの俳句だといえるものができるまで続けなさい…と言われた。全くその通りである。この言葉は俳句を書く者にとっては基本的態度である。その心とは天性のものではないのだ。その心を磨くには努力がいるが、普通にしていたのでは進歩しない。どうすればいいのかだが、その心の真理は、いったい何なのかだが、物には、それそのものが所有している情感がある。その情感を受けて横へ連想させてゆくこと。この時に俳人自身の心も一緒に連想させることなのである。物を見たその時に感じた心を大切にし、そこで思った事を次の言葉へ連想させてゆく。そうして言葉を繋いで、また別の言葉へと広げてゆくことなのである。先ほどの「林檎」であれば、赤くて円形体で甘酸っぱい味がする、と一般には思われている。では、ここからどのように発想を展開してゆくかなのだが、赤くて円形体ならば「達磨」を思いつく人もいれば、ただ赤い部分が目に浮かび「日の丸」を思う人もいる。甘酸っぱい味が心に残れば、四季それぞれの果実を思うだろう。でもこれらは全て物体からの連想なのである。俳句はこれらの連想の繋がりにより思考が展開されているのである。連想は伝統俳句と、現代俳句とでは、その展開がすこし違うように私は思う。伝統俳句はその連想イメージの広がりが一句読み終えた時点で完結されているようにも。だが現代俳句は一句の完結はなくむしろそれ以後の連想イメージの広がりが果てしなく続くようにも思う。そしてその結果、連想は意外性を生む。この意外性の強調が俳句に新鮮さをあたえているのである。

   紙漉のこの婆死ねば一人減る  大野林火

現代俳句協会データベース作者一覧より。この句のポイントは老婆ではなく紙漉の作業している人にあり、一つの物体の連想から次への連想に向け関連性を保持しながら思考を動かし情感を強めている。老婆へと発想が動くまでに作者の目には紙漉の作業そのものしか見ていなかったであろうと思う。そしてその作業の手つき動きに目が止まった時に「婆」を意識したものと思われる。この「婆」を見ていると、この年にまで作業を保持してきた心を思ったであろう。「婆」からはそこに死の観念が浮かび、紙漉人は「一人減る」と、ここで句が定着する。これを要約すれば全て連想なのである。作者自身による心中の連想なのである。紙漉→婆→一人減る…と連想を繋ぐ工夫がある。物体よりの作者自身の心情を連想させての俳句。「紙漉」の作業人が「一人減る」ことの真実が「婆」であったことの意外性の強調は連想の流れの上手な定着であった。

 連想は、時に作者を素直にさせてしまうものだ。それは予期していない時に起こる。意外性は…そんな作者の素直な気持ちの心に宿る。

   しゃぼん玉ひとつふたつは風を蹴り   花谷 清

俳誌「藍」500号記念特集、花谷 清自選作品より。「しゃぼん玉」からの連想は詩情深いものを感じるが、ここでの発想の原点は人間と同じ扱いで命の通った個人なのである。所謂生命ある一個人としての存在なのである。「しゃぼん玉」に作者自身を連想させているのだ。そして沢山ある「しゃぼん玉」のなかから「ひとつふたつ」と作者自身に近いものを選びだす。この言葉の繋ぎは全て連想なのである。その後の展開へと言葉を広げて結ぶ。それが「風を蹴り」なのだ。連想とは…このように作者の心を連想させながら結合して一句を完結させるものなのである。だが、この「しゃぼん玉」は自己主張の意志を持っている。普通は風に乗って飛んでいるのだが、風をけっ飛ばしているのである。これは連想による物語の凄い結末。この連想が可能なのは心が素直でいられる時でしか対象物は見えてこない。全ての連想は純粋な心でこそ物体は見えてくるものであろう。

 意外性と言っても難しい思考はしなくてもいい句もある。連想に連想を縦に重ね対比させて句意を深める手法である。

   あめんぼと雨とあめんぼと雨と   藤田湘子

句集『神楽』(平成11年)より。同じ言葉のリフレインである。何が意外性かといえば「あめんぼと雨と」の同じ光景を二回連想させていることである。わざとらしいといえばいえなくもないのだが、ここがこの句の強調する部分なのである。何故なのか。共通していることは…水…なのである。連想の基本は一つの象徴するものを通して連想することにより、言葉の連想がスムーズに理解されるからなのだ。この場の「雨」は「あめんぼ」にとってはなくてはならない大切な…水…なのである。また、「あめんぼ」と「雨」は切り離せない連想言葉だからである。このように一句の成否を考えるとき、連想言葉は幅広く動き廻る。単純に連想を繋ぐ心を深めてゆくと、遂には連想言葉までも誕生させてしまう。連想は言葉を動かせて読者を楽しませてくれる。

 また、連想の思いを重ねるときにたった一語のみの言葉ににこだわり心を広げる句に出会うことがある。そのような句には重厚感を置くことができているようにも思える。

   啓蟄のなかなかできぬさかあがり  大場佳子

俳誌「歯車」369号より。重厚感のあることばとは「啓蟄」。この言葉一つのみで句を完成させている。作者もこの言葉にポイントがあることを示し、他の言葉すべてをひらがな書きにしているのだろう。「啓蟄」からの連想だが、寒い季節より生命が動き出す心を作者なりに感受。ここからの連想が凄いのである。具体的なものは一切登場させないで「啓蟄」の言葉からの連想を完結させようとしているのである。例えば、この場に必要とあれば、子供たちが光景の中に配置されていても、と思うのだが場面設定のなかにはない。これは何故なのだろうと思う。どこまでも「啓蟄」の連想そのものを自己主張したかったのでは。私にはそのように思われる。…このように一切の言葉を排し、主張したい連想言葉を自ら生み出すことの意味は連想言葉を重くする。

 連想言葉に重みを置き、句を意識的に仕上げる面白さは、俳人にとってはとても楽しい。その楽しさ故に読者も喜びの中へ溶け込むこができる。

   木枯一号都合があって夜に来る    飛永百合子

俳誌「歯車」368号より。この句は作者が自前流に連想言葉を作りあげて新しさを求めようとしている。その言葉とは「都合があって」。連想言葉を作者好みに作る楽しさは、作者の性格までも出てしまうもの。この「都合があって」は作者の都合なのである。作者流に考える連想言葉なのである。さて、この、「都合があって」の連想言葉を生むまでには何があったのだろうか。単純に思いつきなのだろうか。しかし読者は、そのようには思わない。それは「木枯一号」の言葉に付随する連想イメージをもってこの言葉を受け入れるからなのだ。寒い季節の到来をイメージしているのである。故にこの「木枯一号」は人々から嫌われ者なのである。だから人々の往来の少ない夜に来るのである。そして作者自ら、そのように思っているいることを示しての表現なのである。連想言葉は言葉を自由に作れるし、言葉で遊ぶことも出来る。句を理解する人たちを楽しくさせてくれる。

 連想言葉に、心がほっとすることがある。自然に心中が洗われるような気持ちになる句に出会うと、俳句は人々に生きていることの素晴らしさを送り込んでいるのかとも考えてしまう。それは俳句そのものを心が超え切ったときではないだろうかとも思う。素晴らしい連想言葉が出し切れたときは心中も満足だろう。故に私たちも満足をもらう。何も、これなのだと、意識しないで思ったままの発想。そんな句が次の句である。

   白木蓮傷つかぬうち散っていく  近藤安子

俳誌「歯車」370号より。意識しないでも連想言葉は生まれる。日常の光景の中に作者自身がいることだけで、目に映った姿だけで一句は生まれる。何も特別なことを表現するものでもない。連想は自然光景の中にも沢山ある。特別な感覚イメージばかりではないのだ。この句、どの部分を取り出してみても新鮮な言葉はない。私たちが日常に使っている言葉ばかりである。だが、よく考えていただきたい。言葉にも、死語、生語、と言うものがあるのではと私を引き止めたのが、この句なのである。その言葉とは「傷つかぬうち」。この言葉は連想言葉なのだが、イメージ言葉でもあろう。作者自身の長い人生体験での傷ついた過去をイメージ連想しているのである。「白木蓮」の「白」→「傷つかぬうち」と連想は進む。そして現在の作者へと連想は戻る。この繰り返しは、作者の心と、今置かれている目の前の光景と、リフレインされてエンドレスなのだ。この連想は生活用語なのである。なんでもないように思われる光景にも連想言葉は生まれることを、この句は示している。

 連想言葉の基本的な考え方を引例句を用いて書いてきたが、実際の場にあって、いざ、この連想言葉を動かせようとすると相当な困難を招く。何故かと問われれば、すぐには答えは出せないかもしれない。それは俳人個人の連想内容がばらばらであるから…。だが、ここでしっかりと言えることは、これらの連想言葉を繋ぐ接着剤がいる。この接着剤がしっかりしていなければ未完成俳句になり句そのものはばらばらになるのである。接着剤とは…それは心である。心情なのである。連想を導き出しているものの元素は心情なのである。俳句の心は連想より発祥したものだろうと、私は思う。

 

      俳句は……不可視の世界に現れる心の変化を取り入れる

      必要があった 

          心 は い つ も 眼 心

 俳句は生きている実感、そしてその真実を如何にして記録してゆけるものなのか。俳句は可視の世界の現象だけではなく、不可視の世界に現れる心の変化を取り入れる必要があったのかも。心の中だけで出会う現象を記録してゆくことの大切さがあったのかもしれない。

…ここに一俳人の文章を紹介したい。

氷雨の東京駅に、上京した「歯車」誌の仲間、永井陽子を送ったことがあった。近づく成人式に、「出席しない、振袖を着ない」と二人で約束し新幹線の窓に手を振った。あれから四十年余り。歯車同期の卯年の女三人、論客で歌人として「噛みつきうさぎ」の異名を持った陽子は詩に殉じ、鳥取の繊細な妙子は詩に病み、才無き私だけが俗っぽくも孫を抱き、拙い詩を紡ぎ続けている。 

 生と死を見つめ生き続ける俳人の切羽詰まったドキュメントである。この一篇の短編小説の書き出しを思い出させる萩澤克子の文章。実に見事な文章である。この文章は克子句集『母系の眉』での覚書だが、これは小説家ではなく、俳人の文章なのである。よく聞かれる言葉に俳句は短編小説でもある、と言う。俳人でもあり、小説家でもあると言う文人はたくさんいる。だが、俳人には俳人特有のものがあり、小説家では書けない世界がある。正に萩澤克子の文章は俳人でしか書けない文章なのであろうか。俳句独特の不可視の目があり、心の傷を癒す俳句を体験しているのである。

   やがて風となる少年の視野にいる   萩澤克子

句集『母系の眉』より。「歯車」に入会して俳句を投句していた頃の句である。私もこの句に心惹かれた思いがある。高校生の頃ではなかったかと思うが、ここには、既に少女趣味的なものはなく、可視・不可視の原点があったのでは…そのようにも思える。見ているものの視野には少年がいるのだが、ただ単に見る眼(可視)ではない。少年に成りきれている作者、克子がいる。見える眼(不可視)の世界である。克子の理想の想像を少年に見つけている。この風景は現実にはありえない、が克子には見えているのだ。つまり見える目になっている。不可視の心である。

 その萩澤克子は高校時代より鈴木石夫の指導を受けた俳人でもあった。その鈴木石夫こそが、俳句独特の可視と不可視の目と心を持った俳人であったように思う。

 ここで…私の思うことだが、俳句は可視と不可視の間を行き来することにより、作者自身が、いままで見たことも思ったこともない環境を持つのではないかとも…と考えてしまう。

 可視→見る眼。

 不可視→見える眼。  

宗教言葉だが、対治は体の傷。同治は心の傷。この心の傷を癒してゆくものを、不可視…見える眼…に見つけているのではなかろうかと思えるようになった。俳人の文章は、小説家の文章とは根本的に異なる。小説は散文の文体であるが、この不可視の心を十七音にまとめたものが俳句ではないかとも…。この不可視の世界こそが他の文芸ジャンルとは異なり俳句の世界だけには存在する。このことを顕著に感じたのは次の句であった。

   大寒や三途の河に橋はあるのか   鈴木石夫  

ここには不可視の世界がある。不可視でありながらもその現実が鈴木石夫の目には見えているのだ。この世では体験しえない現実を「三途の河に橋はあるのか」と語りかける言葉こそが石夫の心には…見える眼になっている。石夫の目に映った現実風景なのだ。

では、見る目とは何なのか。見える目とは何なのか。…見る目とは太陽光が当たり輝いて部分である。そして見える目とは、太陽光の当たらない影になる部分。実際は見えない部分なのだが、作者となる俳人その個人には見えている部分なのである。

絵画や写真は、この可視と不可視の現象を巧みに組み合わせて一枚のもにするのである。そして実際には影になって隠されている部分を、作者の心で感知した感覚として、その形を見せているのである。一方、その形を言葉で示し見せるのが俳句なのだ。その両方を相乗作用の効果に導いてゆくのが、写俳である。その写俳の創始者は伊丹三樹彦であった。そのこころは眼心指と言う。その出版した写俳集『ガンガの沐浴』の中での言葉。写真撮影でのシャッターを押すときの指の心得だが、俳句の視野においては眼心そのものなのであろう。

   鎌鼬 漢字でなけりや凄味がない   鈴木石夫

この句、可視の部分言葉は「鎌鼬」だけである。石夫の目は鎌鼬を見ているのだが、具体的な状況や様子は、言葉としてはない。と言うよりは必要がないのだ。上五音の部分から可視…見る眼ではなく、即、現実には見えてはいない不可視の部分が…見える眼になる。石夫の感覚として「その凄味」が言葉になって見えている。太陽光線に照り輝いている表面ではない。むしろ影になる部分にまで鎌鼬の生態を見ては心する。…それそのものが眼心なのである。この句の特異性は、可視の俳句ではなく、不可視の中における見えない部分を見えるものとして形にすることであったのではないかと、私には思える俳句であった。

   かまきりの孤高は午後の風の中  鈴木石夫

ただ単に漠然とかまきりを見ているのだが、石夫にだけ見えてくるものがある。あのかまきりの勇ましい鎌のような手とも思える姿に、一瞬、静かな動きを見てしまったのだ。かまきりの動くたびに寂しさを見ている、その一瞬一瞬に孤高を感じる。これは、一般人には見えてはいない部分である。つまり不可視の部分。だが、石夫は見えている心になって、情感を沸き立たせ、午後の風の中へと引き込み癒して慰める。心の回復をさせているのである。この句は不可視の部分に見える目を持つことで定着し俳句になったのである。…眼心とは俳句の世界にだけ存在するものであるのだろう。眼心指とは俳人三樹彦の写俳の世界でのものだが、現代人が俳句を作るときの心得として大切である。その心はいつも眼心。

 鈴木石夫の可視 不可視の世界は、どのように受け渡されているのだろうか。すこし考えてみたい。

   骨までか骨からなのか曼珠沙華    前田 弘

現在の俳誌「歯車」代表の平成19年の作品である。一般人には見えてはいない曼珠沙華の影の部分が、この句には見えている。前田代表には、当然のようにあたりまえに目の中にはあるのだ。「骨までか骨からなのか」とまで語らせるその心はなになのだろうか。見ているのは曼珠沙華の可視の花の部分なのかもしれないが見えているのは、枯れかけた茎の全身なのだ。ここから曼珠沙華の毎日の闘いが始まるのだろうと呼びかける声が聞こえてくる。枯れかけた茎は骨。擬人化されて曼珠沙華は人体へと見えてくる。前田弘にだけ見えているのだ。不可視の部分は前田弘にだけ存在する現実風景なのだ。

 春愁やきっと交わる平行線  大久保史彦

俳誌「歯車」編集に全力で取り組む大久保史彦だが、その俳句には、時に魂の眼心を魅せることがある。この句、平成21年五月号「歯車」より抜粋。凡人では、平行線を見ていても、何処まで伸びて行っても、言葉の言語通りに平行である。だが、文彦には見えているのである。見ているのではないのだ。即ち可視の世界にいるのだが、不可視の現実が見えているのだ。時間が経てば、平行線ではなくなることを信じつつ、それも、春の愁いが、こんなに燦々とあるのだから…と。文彦の胸中には、人間同士のお互いが理解し合えない心の平行線があったのかもしれない。

 俳句で感動を得るとはどう言うものなのか考えてしまっていた。俳句を記録し残してゆくことは、日々の現象だけを克明に写実しても誰も感動しなくなっているのではないかと、私自身は思えるようになった。可視の世界の現象だけでは物足りなくなり、不可視の世界に現れる心の変化を取り入れる必要があったのかも。見えていないものまで、見えるように写実するとは、昭和38年頃、現代俳句の革命のように、研究、実作が行われていたが、いまその必要が迫られているようにも思うのは、私だけではないように思う。この運動が、やがては前衛俳句へと発展し、その心の改革が本格俳句を生むきっかけになったのである。

 鈴木石夫が、俳誌「歯車」に残して頂いた可視より不可視を覗き、その不可視の現象に、本来の人間の心を見つめる姿勢を、私たちは忘れてはならない。その心は何時も眼心。これは現代俳句を革新へと牽引した伊丹三樹彦も同じである。既にこの眼心は石夫も三樹彦も、昭和38年頃には実践されていたのではないかとも思われる。このふたりの師に巡り合えたことに私は感謝しいる。

 

 

       ♡話題になったエッセー私の文章…特集2

     インターネットで人気になった心に残る文章より

 

       日々生活する自分自身の自己確認は大切……俳句の心 

       俳句における自己確認表現とは…

 私たちは毎日の暮らしの中で数多くの体験や知識を得て日々を無事に暮らしている。その幸福感に満足し生きているのだが、日々何事もないように暮らしている。これらは毎日の生活の自己記録でもある。しかしよく考えてみるとそれは自己確認の証でもあるのだ。俳句はその自己確認の本物感を如何に強められるかが問われている。俳句に求められている課題は本物感の真実性でもあろうか。俳句の醍醐味は今までに感じたことのない満足感を、それぞれの作品より得ることがどのように出来るかに尽きることであるようにも私には思われる。

 伝統俳句より現代俳句へ。そしていまや未来への門出ともなろうかとも思える俳句までも出現してきた。本当の俳句性が何であるのかと、問いかけられている昨今である。…私はその一端を第17回現代俳句大賞受賞の安西篤さんの受賞作品に接すことで味合うことが出来た。

   存在や三尺高い木に梟   安西 篤

「現代俳句」平成29年7月号より。まず考えられるのは作品以前の心のあり方が現実的であること。しっかりとした目視があっての作者の態度が確認されていることである。作品をなすのに言葉から作りはじめてはいないのである。誰もが陥りやすい作り方に言葉の示すムードの興味を受け取りやすいのだが安西篤さんにはそのような言葉感覚は一切ないのである。目視でしっかり捉えた現実とは「三尺高い木」に住む「梟」なのである。この「梟」こそ作者自身でもあろうか。この存在感の力強さ。凄い本物感である。

この存在感は…いったい何に基づくのだろうと思っていると、その根拠が安西篤さん自身の言葉の中に見ることが出来た。師でもある金子兜太指導の「人間としての生き方の俳句」であつた。つまるところそれは存在者として生きる俳句であった。

   淋しさに大きさのない秋の暮    安西 篤

この句も受賞作品なのだが、ここにも存在感が確かに確立されてある。観念になりやすい秋の「淋しさ」を作者自らの視線でその光景を確かめて「大きさのない」と目に取り入れる感性は、作者ならでの、より具体的な「秋の暮」である。これは事実としての心の扉がひらかれた瞬間であったのかもしれないと私は思った。…凄い本物感である。だがこのような凄い本物感は何処から何によって生まれてくるのだろうと考えていたとき次の事を私は思った。俳句は自己確認をもって、その事実を、より本物にするのだろう。その自己確認は、自己表現の本物感をもって、俳句を楽しくもさせるものだろう。

   痛快な空腹八月十五日    前田 弘     

俳誌「歯車」373号より。この句の本物感は、誠に本物である。すこし可笑しな言い方だが、このように思えるほど、この句は自己確認が出来ている。これは「八月十五日」の俳句言葉のこの句における場合の存在感が大きな重要性をなしているからなのである。そして作者の「空腹」は「痛快な」とも言えるほどにも達している心の有り様は異常なとも思える。この「空腹」感は本物の凄さなのだ。この自己表現は読者を楽しませてくれている。ここに表現されている事実は真実であり嘘ではない。その証は自己確認が出来ているからなのだ。作者自身の意識を内心へ向かって跳ね返らす自己確認であったのかもしれないと私は思う。。

 このような本物感は、自然へ向かっても目視される。しっかりとした自己確認は次の句にも出来ている。

   広島忌地球はいつも何処か朝   高田 毅

俳誌「歯車」373号より。人間の心はこのような自然への人為的現象に対しても自己確認は出来ている。「いつも何処か朝」は観念語ではない。作者の目で確認しての言葉であって本物である。決して言語だけのものではない。真実なのだ。そしてこのようであって欲しいと願っての「いつも何処か朝」なのでもある。全ての本物感は自分自身の確かな目視による自己確認の心の置き場所なのである。本物感の凄さは自己確認の心の感じ方にあり、その置き場所としての言葉の見つけ方と表現の強弱に左右される。「いつも何処か」と作者が自分自身の内心へ語りかけている自己確認言葉であった。自己確認が出来ている句は凄い本物感を強く出せるのである。

 詩情もなく、抒情もなく、切れも、深みもない、…こんな句が言葉の綾や粋な使用により、人気を得る。へんな流れが俳句の王道を生き続ける。でも、これがいまの俳壇の現状である。私が何故、俳句の本物感を問い詰めるのかを理解して頂きたくこの稿を書いているのである。俳句から言葉だけが先行して、その言葉の粋な計らいによって新しさを受け取る、こんな俳句からは本物感は得られない。月日の経過によって忘れられてゆく俳句からは本物感などは生まれないのだろうと私は思う。このような事を思い始めた根底には人間の心の在り様の未知なる部分が本物感の強さにあるのではと、気づいたことだった。それは自然を目視する作者の感性により、顕著に出る。

   虹なにかしきりにこぼす海の上   鷹羽狩行

「俳壇」2004年8月号より。この句は作者が自然と一体になった瞬間の緊張感である。この句は物を見ないでは作れはしない。言葉だけの感覚では作れないのだ。「虹なにかしきりにこぼす」とは目視なしでは発想は出てこないだろう。本物感とは作者の目視によって、眼底に取り入れ、留め置いての残像を意味する、そのときの緊張状態である。この緊張感だが、強ければ強いほど、また緊張状態が長く保持し続ければ続くほど本物感は凄くなる。

 本物感を強めることは私性に徹すること。俳句は三人称、二人称では書かないのです。我々、私達でもなく、あなた、君でもない、常に私もしくは僕なのである。そして起承転結でもなく、導入部、展開部、終結部という五・七・五の俳句的展開の表現である。これは知的興奮を引き出すにもっとも良い表現であるから…。次の句を見ていただきたい。

   野に詩の無き日よ凧を買ひもどる   今瀬剛一

「俳句」平成17年2月号より。私の周りを克明に語り、探し出してゆく事により「私」を語る…これは映画やテレビのシナリオにおける基本である。ここに佇む作者の一抹の空虚感は、たた単に寂しく虚しいだけではなかったのだ。喧騒の都市を離れて野原へ癒しの心を求めて旅に出たのであろうか。それらは「野に詩の無き日よ」の俳句言葉で理解できる。今瀬剛一さんの自句自解が私の心を誘った。次のようなものであった。

 …一面の枯野、時々水音と出会うぐらいで取り立てて目新しいものは何もない。…私はほとんど半日をこの枯野に虚しく過ごし帰路に着いた。雑貨屋で凧を買った。その糸の部分を指にからませて歩いていたら「凧を買ふ」という言葉が口を衝いて出てきた。私はまた今日一日の虚しさを思った。それは「野に詩のなき」一日でもあったのだ。この句の発想は俳句は一人称の視点での思いを事ほどに強くしているようにも感じる私性がこの句の中に込められているようにも思われるのである。本物感は何時も一人称の発想視点でのものであるのではないかと私は思うようになった。しかし世の中に現存するものは一人称のものばかりではないのだ。一人称の表現スタイルが俳句の本物感を深めるのには欠かせないのではあるのだが、目視の対象は三人称のものばかりである。この生活日常は複数の形をなしての存在。…だが、表現の基本は私の目を通しての一人称が理想。作者の目視の中では一人称にして捉えなければ本物感は出せないのである。

   星たちのぽーと沸点春夕べ   児島庸晃

俳誌「歯車」375号より。この句は私の作品だが、「星たち」と視点の先にあるのは無数の星。全ては三人称である。出来上がった句は一人称の句である。何処が一人称なのかだが。よく見ていただきたい。「ぽーと沸点」の俳句言葉は私の目視の選択では一人称の扱いとして表現されているのである。目視した対象物は「星たち」と三人称なのだが、その焦点は私の感動を受けた部分に絞られての「ぽーと沸点」となる。私の目の中では、私の心として一人称になって感動を残しているのだ。このように感動を受けた部分を私事として、一人称の強い感動言語として残すことにより本物感を強く出せるのである。

 ところで本物感とは…そう思って私なりの思いをめて日頃の思考を進めてきたのだが、それが俳人の基本的姿勢であると尚一層の強さを感じる基盤だとも思うようになってきた。そしてそこに通じる緊張感を維持する心であるとも思える。真実が如何に存在感を伝えているのかの表現こそ大切である、と私は思うのである。

 俳人自身が現実との闘いの緊張感にあるのではと、改めてそのように思う私のいまがある。俳句の本物感は真実感である。それは俳人自身の目視の体験がなされなければ、その本物感は出てこないのだろうとも思う。

   一本の指に崩れる蝌蚪の陣    岡崎淳子

句集『蝶のみち』2013年現代俳句協会発行より。この句の本物感を支えているもの、と問われて即座に答えを引き出せる人は真心が理解出来る俳人でもあろうか。その真心を生み出しているものは目視が如何に重要で大切な仕草なのかであろうかと思う。それは「一本の指に崩れる」の俳句言葉で理解出来る。何気ない素振りの表現に込められた真実の正確な言葉選びには凄い真実がある。この「一本の指に崩れる」こそ、凄い本物なのである。目視による体験がなされていなければ真実は生まれてはいないのだ。言葉の興味から俳句へとは思考していないことがわかる。「蝌蚪の陣」とは蝌蚪の家族の集まりでもあり、絆を保ち日々の安全生活の場所でもあろうか。この場所へ人間の「一本の指」の侵入は耐えられない危機である。「一本の指」の侵入により蝌蚪は周辺に散り広がるのだ…この緊張感はこれを体験する作者にしても耐えられない緊張感であったのだろう。ここには物凄い本物があるようにも私には思える。俳句は言葉の真実を如何に本物の言葉に変革させるかであろう。 

 いまの俳壇はあまりにも本物感のない句が多いのである。そして俳句ではなくコピー感覚になっているのには驚く。日常の出来事をキャッチコピーにしてしまっている。広告物の見出しに等しいキャッチコピーである。人目の引きやすい出来事に言葉が並べられて、ここには詩の感覚は薄いようにも感じられのだ。俳句における本物感は、或いは真実はキャッチコピーではないのだ。例えばだが、これには飲料メーカーなどの募集する俳句がその広告を主体とするためキャッチコピー的なもの故のもので俳句とはほど遠い内容が採用されるので勘違いされたりしているのかもしれない。…俳句は本物感をどのように出して表現されるかが問われている。俳句の醍醐味は本物感の凄さの表現に左右されるのではないだろうか。いまも思うことだが、自己確認の精神は鈴木石夫先生より教わったものである。自己確認による本物感の俳句は鈴木石夫俳句には一杯あった。

 

      現代社会を忠実に表現するには……の考案者俳人伊丹三樹彦 

          批判的リアリズム論は何を表現出来たのか

   批判的リアリズムの誕生が必然であったが、如何に苦難の末の思考であったか。この運動が、その後の俳句界にとってどれほど新鮮であったかを思うと俳人伊丹三樹彦の先見の目と、このことの重要性を思わざるを得ないのである。そのことは当時の十代、二十代の青年男女の俳句を愛好する数が殊のほか増えていったことでもわかります。このころ同じように鈴木石夫も若者の育成に必死でした。私たちは、鈴木石夫、伊丹三樹彦の二人の頑張りにより、現代俳句発展の今があることに感謝しなければなりません。

 ここでは批判的リアリズムより生み出された、さらにその基本となる三本の柱を詳しく書いてゆくことにします。

三リ主義…とは。

  感情のリリシズム

  態度のリアリズム

  形式のリゴリズム

の三本の柱です。 

 ここで当時話題になった作品を私なりに語りたいと思いますが俳壇で注目を集めた作品でもありました。

 ◎感情のリリシズム

   街は桜の季節で行方不明の僕

   誤診ではなかった胸裏の薔薇さわぐ

   ねむい春日の触手肺から腐る僕

この俳句は新里純男の絶唱作品である。この俳人は二六歳の若さでの肺結核死。奥多摩清瀬病院での療養中に楠本憲吉との触れ合いがあり、その感覚が芽生えてゆくのだが、まったく暗愁の句である。胸を病み国立清瀬病院の奥多摩の山中にあった昭和三十年より三十五年四月までの五年足らずの間で二百数句を残している。その俳歴は「馬酔木」に始まり「春嶺」「山河」「青玄」へ、と足跡を残す。「僕は句のなかに自分が入らなかったり、みつめて居る自分がなくては僕の句として満足できない。一つの句を完全に自分のものにするまで推敲してゆく」彼自身のことばである。観念としての心→風景としての事物→行動としての心→思想あるいは思考の中に出来る風景→具象化されたまったく新しい心の風景、の順に彼の体内をくるくる回って行く、この鋭敏な感性はイメージにリアリティをもたせるだけの抵抗感を己に植えつけずにはおかないのである。自己自身に向けての批判性はリアリズムを考えるとき純男独特のリリシズムによって支えられていた。即ち批判的リアリズムの極致である。

   友の死や寒鯉徐々に沈む

   合唱やここは風湧くげんげ世界

昭和三二年「春嶺」時代の作品である。伊丹三樹彦は「繊細なるが故に、純粋なるが故に傷つきやすい青年の暗愁に充ちた詩の世界に強く魅惑されてしまった」といっており、楠本憲吉は「青春固有の愛と、死と、ポエジー。まぎれもない過去の私がそこに二重像となって浮かんで来る」という。

   赤錆びた冷雨主婦来て死魚を買う

   夕餉ひとり魚に暗い穴をあげる

   冬日は父性の温さで白い孤児の家

   無思想の歯で噛む林檎鉄の硬さ

体外の心に体内の心を近づけようとするとき、ここには精神の疲労感はまったくといっていいほどない。この暗から明へ続く過程に新里純男自身の心がある。冷たい雨を「赤錆びた」と感受。魚に「暗い穴」をあけることに精神の安定を勝ちとり「冬日に父性の温さ」を感じ「孤児の家」に降らせるこの心の温情と優しさ。「林檎」に鉄の硬さを認知する。「無思想」なるが故に自分自身をむさしいと感じる。このむなしさこそ、本物の彼の抵抗であった。

   見えぬ傷に耐えて冬越す林檎と僕

   見えぬもの狙撃する萱風に鳴き

まぎれもない抵抗感…敵はいつも見えないところに存在する。存在してなお、個々の心をいたみつける。それが彼の場合は病魔であった。この病魔との闘いのなかに孤立化してゆく自分自身との闘いを見いだす。実はこの自分との闘いに強烈な自己確認の方法があった。

   空気銃とお化けの記憶森黄ばむ

   昏い旅愁 枯野で光る不思議な石

   灯が凍結して 誰か泣くガラスの街

   昇給待つ日々屑籠で死んだ薔薇  

   蝌蚪見るため泉へ棄てた白い顔

   昏い雨季の日本を捨てた赤風船

自己確認しつつ、どうしようもない自分を発見して、西へも東へもその方向を見つけ出せないぎりぎりのとまどいを、私は見逃したようにも思う。彼の方法をつきつめて考えてゆくときこのとまどいを自己確認の文体にひきいれていた敏感さ、それらはつまるところ短詩系における、リリシズムの情感という自己解決の方法であった。ここに伊丹三樹彦の提唱する批判的リアリズムの世界があった。

 ◎態度のリアリズム

 このころ俳壇に話題を放った関西の俳人がいた。室生幸太郎である。 

    母の骨のブローチを売る廃墟の少年 

昭和三七年「青玄」誌上に「廃墟」と題して発表した一五句の中の一句である。この句の発表を誌上で見た私は驚きでいっぱいであった。なにしろ当時は有季・定型で伝統俳句の全盛期であったのだ。沢木欣一や原子公平、そして金子兜太のグループ「風」による社会性俳句がようやく発表され始めたころではあったが激動する時代の流れの中に生きてゆく人々を充分に描ききれてはいなかったのだ。このとき弱いもの、惨めなものへ向かいヒューマニズムの眼を向けて自己主張を放ってゆくのだ。そこにはしっかりとした現実を見るリアリズムが基調をなしている。それらを自己の態度として定着させるリアリズムでもあった。

   レンガに溶けた恋人なでる 灰降る晩

   ベル押した掌が咲きなびく 被爆の寺

   かすかな明日が藻の中流れ 銃声止む

   デスクで消える 火色のネクタイ吊り

   いななく馬を生贄 ビルの白い秘境

   愛の奴隷か ひかりの渚を来る素足

   日を運ぶ鳥たち 枯木の異人館

室生幸太郎は日野草城の弟子である。昭和二七年当時の国鉄大阪駅構内の専門大店で「青玄」を手にする。その後大阪経済大学社会学科へ入学下宿するのだが、その近くに病む身を横たえている「日光草舎」があり、頻繁に訪れ師事するのだ。草城逝去後「        青玄」は伊丹三樹彦に引き継がれるのだが社会的リアリティを俳句という短詩系に如何にこめるのか、その実験的作品の実践にのりだしてゆく。その答えが批判的リアリズムの実践ではなかっったのかと私には思えた。その先陣をきって走ってゆくのが室生幸太郎であった。人間存在の不安定感を心象風景にしてゆく。その試みはやがて批判的リアリズムと言う「青玄」の主張へと発展してゆく。

   二個のミイラと永遠の鐘 砂ばかり咲き

   蔦がうめる地下室 少年の日の死と愛

   寒い海流 ビルを解かれた便器みがく

   ながい受胎のかなしみ 首なし聖者ら灼け

   もだえのこる唇空に 遺跡生え

世紀末とも思われる光景を想像の視野に入れて強烈な批判精神にして表現する句想こそのリアリズム。…まさに室生幸太郎の主張であり態度でもあったのだろうと私には思われる。その後「暁」の代表者となるがこの原点なくしては幸太郎の存在はないだろう。

 ◎形式のリゴリズム

伊丹三樹彦の主張を定義づけたのは、たむらちせいであった。批判的リアリズムを打ち出す基調が三リ主義であり、リアリズム、リリシリズム、リゴリズム、の中における句の発想を、俳句の三味として俳壇に提示したのでした。

 即ち、三味とは、

   アイロニー

   ユーモアと

   ペーソスと

ここに書かれた三つの味は、それぞれ独立したものであって、人間生活のなかで欠かすことのできない絶対条件であった。三樹彦は現実の中にあって、視点は人間の生活にあった。自然ではなかった。ときに怒る。かなしむ。考える。悩む。普通の人間の生活であった。自然に眼を向けていても、それを見ている人間の感情なり思想が批評精神となって今のあり方を示していたのであった。

 三樹彦がリゴリズムの在り方を最初に示したのは…

   妻を託す産婆は夏も肥大なる

この作品は第一次青玄のころのものである。アイロニーにしろ、ユーモアにしろ、ペーソスにしろ、味わい方は異なっていても、いずれの場合にも、そこには笑いの形をとっている。この句の場合においても、ただ単に産婆が肥大なだけをとらえているのであれば笑いだけになってしまって意味をなさないことになる。…そんな産婆に妻を託す安心感、たのもしさといったものが感じられるからこの句は人間的なあたたかさがあるのである。ここには批判的、批評的要素が感じられてリアリズムの原点をなしている。

 このことは第二次青玄に至ってより一層はっきと現われ、ペーソスやユーモアやアイロニーはひとつの思想となってくる。

   ぼくの墓ですか はい 去来の墓ほどな

   摘むは防風 あれは墓だか 石ころだか

   幸福温泉 開業 赤子の泣声で

   恋猫に根負けのペン 徹夜詩人

   土偶まがいの首や手足や 踊る農夫

これらの句の根底には俳人の主張でもある態度としてのリゴリズムの三味がふくまれていた。

 一方、伊丹三樹彦の三リ主義における三味を最も理解しての批判的リアリズムの実践者は門田泰彦であった。

   あめんぼ寂と「ほかにどんな姿勢がある」

   チュウ太と名付け その鼠穴に罠仕掛ける

   いっそ強風となれば 辛酸やわらぐ葦

   老爺と居て孤独 泪復活す

この呟き。この句に至るまでの泰彦を思えば私にも泪が出る思いである。泰彦は批判的リアリズムを打ち出した母体である青玄大阪支部の厳しい試練の中で育った俳人である。激しい議論のあまり私は何度か目をつぶることがあった。それでも三樹彦は容赦なかった。ものすごい議論の応酬であった。…こんな環境の中で泰彦は育ってゆくのだ。

 門田泰彦は昭和6年生まれ、大阪市西成区梅通六丁目、ここより南へ15分も歩けばあいりん地区の浮浪者と日雇い者の貧民街がある。一般に言われている釜ヶ崎地区である。ここで青年時代を暮らす隣接するこの町の中で毎日の光景の人間とも思えない仕草を目に焼き付け批評とも批判とも思える思想のリアリズムを身につけてゆくのである。

   舐めてもなめても生活の渦 夜の綿菓子

   ひたすら駈け 暗夜のどこかで翔つ少年

   折れたルージュから氷結音を聴き給え

   猫背に去る若者 前方を射ちつくし 

   労働祭 自転車泥棒逃げきるらし

   水洗便所快調 失うものなくて

   喋なければ孤独 鸚鵡百色着て

昭和37年の作品である。しっかりとした事物を見尽くす眼は「隠れているものまで見えるように書く」と言う、三樹彦の批判的リアリズムを熟知しての句作りであった。

革新とは何か。無数の俳句結社があり、同人誌があり、仲間誌がある。それぞれの所属誌の中で、それぞれの主張が大きく羽ばたく。それぞれの所属誌ごとに良い悪いの判断基準が異なる。この俳句の現実に向かった時、句を作るという感覚に何が求められるのかを反省しなければならないのが、昨今の問題でもあろう。

 …このような課題を抱え、いまや俳句は混迷を深めている。私たちが現実に対して、どのように向かって対処するのかを避けて通れないのがリアリズムへの思考の深さではないかと思う。良い句、良くない句の判断基準の差を縮めるとすれば、それはリアリズムの取り扱いの問題でもあるように思うのだが。これはどの俳句集団も同じであろう。そのなかでもこの批判的リアリズムへの再考はもっとも切実な取り組みであるようにも思われる。

 

       現実社会は心の繋ぎ合いがなければ……生きてはゆけない

            俳句は傷ついた心を癒すためにある 

 生きてゆくためには心の浄化がなされなければ、今の現実に埋まり鬱になる。心の純白は俳人の一句の中にも出せる。俳人俳人の交流はお互いの心の繋ぎ合いでもある。現代俳句は、この感情表現の成否により、読者への受け入れを素直にする。それには心の浄化が最も大切なのである。

   山又山山桜又山桜   阿波野青畝

  総合誌「俳句」平成15年5月号より。物事を目視する、その瞬間、この句ほど心を無にして、無心にして接すことに徹した句を、これまで見たことはない。この句は、私がこの句を知った時からなのだが自然詠ではないようにも思っていた。「山又山」と目視のそこに見たものは自然そのもの。何の汚れもない色彩の姿である。だが、作者の心が無でなければ、この自然の美景は見えてはいなかっただろうと私は思った。ここには作者の心の純白にして無心の私性が強く存在していたこと。無心の心の在りようが作者本人に宿っていなければ、ここへの受け入れは出来てはいなかったのではないかと何時も私はこれまで思ってきた。私自身の心を無色透明にしておかねばならないことは、1970年当時の時代性にあった。感情表現をする時、如何に無にしていることが、目視に際し大事であるかを当時の事として知る。無心の心でなければ、周辺の物事を目視しても何も感じないのである。心が汚れていれば何も感じなくなる。目視しても何も心には入ってこないのである。私の記憶に強烈に残る一句がある。

    空賊遠く鏡中泳ぐ平和な髪   児島庸晃

 私の句集『風のあり』より、1970年頃だったか。よど号ハイジャック事件が起こった。その背景にあったのが魔女重信房子の存在だった。その事件をラジオの臨時ニュースで聞く。その時の句である。この時代は若者の自殺者が多かった。世界同時革命を目論み立ち上がった事件だった。この暗い世の中にあることは私の身辺の事実でも知った。俳誌「渦」の同人だった中谷寛章と喫茶店で話をしている時、重信房子との交流のある中谷寛章の側に公安警察の目が光っていたこと。この時私は心が汚れとても悲しい思いをした。この事実を私は自分自身の心中を無にすることで耐えた。この時に目視したのが鏡に映った「平和な髪」であった。手の汚れを洗い落しふと鏡に映った私自身の頭髪がふぁっと広がり豊かに泳ぐようにそこにはあった。この平和な情景に私の心が救われた思いに安堵した。そして無心になるこころの大切を知る。29歳のときだった。

   落蝉のこれでいいのだという容   前田光枝

 俳誌「歯車」325号より。「これでいいのだという容」は心で物事を受け取らなければ発想は出てこない俳句言葉である。よってこの時、作者の心中には、無心に目視している必死な心であったのだろうと私には思える。この時、心は純色であったのだろう。心は目視にだけ集中できる無に等しい心境が存在していたのだろう。汚れのない心中が目視には必要なのである。この時に、はじめて目視は可能になる。よく聞く言葉に…俳句が作れないのよ…と言う言葉を聞くが、これは俳句が作れる心にはなっていないからである。心が汚れ切っているから…。物事を見ていても心を空白にしていなければ何も見えてはこない。この句は、これらのことを考慮していて作れる心を保持している句なのである。

   背中から春の時雨に溶けてゆく   宮川三保子

句集『黄砂』より。最近上梓された句集である。この句の作者の素直な心に私が何時の間にか素直になってゆく句心の俳句である。それは作者の心の中が真っ白であるから…。物を目視するのに汚れのない気持ちの心を持っているからである。「溶けてゆく」と言う俳句言葉は、容易には思いつかない言葉なのではなかろうか。物事が強く細かく見えている。普段の日常生活の慣らされた習慣の中で物事をよく見届けるのは、よほど心の中を純白していなけば見えてはこないし、心には飛び込んではこないもの。俳句の感情表現は心が無で白くなけれは、本心は表面には出てきにくいもの。それらは直情表現になり、全ては説明言葉になる。俳人個々の信条は私言葉になり、真実感がない、詩にはならないで作り言葉になる。この句は内心が無色透明だからこそ、この句を目にする俳人の心に受け入れられるのである。それが「背中から…溶けてゆく」なのであろう。心には雑念が詰まっていては物は見えてこない。「背中から」の俳句言葉は作者自身の存在感を正面で受け止めた瞬間の純粋感である。ここには感覚としての無色透明を含む気持ちを感じさせている。だが、疲れた心を真っ白の心へと変革する過程で心を磨き損ねると作者自身、自分自身を見失ってしまうこともある事を考えねばならない。自分自身が純白へと抜けきれないで命を絶った俳人もいることを私は思い出していた。俳人永井陽子である。世に知れ渡るのは歌人としてなのだが…。1999年2月より40日間肺炎で入院しているが、2000年1月26日に死去。文献によると自殺だった。文芸への出発点は高校生の頃、「歯車」だった。

   自らの影折りながら冬野行く   永井陽子

俳誌「歯車」94号より。俳句言葉「影折りながら」は発想の段階で相当傷ついているのであろう。普通人は「影折りながら」とは思いつかないだろう。目視しているのは作者自身の地面に投影された身体なのだろうが、前進するのに「影折りながら」とは自虐の心をして見ているのだろうか。この心は無色ではない。従って無の心にはなっていないのである。この句を作った時、心は相当汚れていたのではなかろうか。自分を責めてはだめ。自分を追い込んではだめ。心を空っぽにしておかなければ俳句そのものが汚れてしまう。人々に共感を与えることはできないだろう。詩情としての俳句言葉にはならないようにも私には思える。永井陽子は結果として純粋の心へと進む過程で、あまりにも純粋すぎていたのであろうか。

   自分自身が、或いは作者自身が、真実無になり切れている句には汚れがない。その句そのものが真である。

   死なうかと囁かれしは蛍の夜    鈴木真砂女

句集『都鳥』(平成6年)より。人は心に鬱がたまると、無口になるのだろうか。しかしこの句は違う。その人は鬱になっても話しかける相手がいるのだから…。何かの困り果てた事情があるのだろう。ここには支えあえる二人の関係がある。この句はお互いの気持ちを共有出来る時間を持つことが出来る。それが読み取れるのが「囁かれしは」の俳句言葉である。話かけられた相手の心は、「死なうかと」の言葉を聞く冷静さがあり、心は無に近い状態の時なのだろうと私は思った。つまり作者…鈴木真砂女…である。つまり無色透明の心で物事を受け止めている。この句の優れているのは無心に相手の話を聞けるだけの気持ちで、汚れのない真っ白の心を示していることである。心を無にすれば真の姿になれる。ここには偽りのない真の心の俳句の緊張感がある。目視は作者自身が何時も無になり、汚れの気持ちを心に残さないことである。作者は何時も心を無心にして目視をしなければならない所以である。

 俳句の感情表現を検証することを考えたのには最近の俳句傾向を思ってのことであった。俳句の中に出てくる言葉があまりにも直情言葉が多くなってきているからであった。美しい、楽しい、嬉しい、麗しい、悲しい、苦しい、汚い、は感情を表面に示すことばである。だが、これらの言葉は俳句表現では使えない。それは俳句の心表現をする時は、このような単純な形容詞で述べるような心ではないからである。心を真っ白にしての目視ではこのような直情にはならないのである。汚れの無い心で物を目視した時は、もっときめの細かい事実が見えてくるのである。人の心を豊かにするには心が純白であらねばならないのである。また心を空白にしていなければ何も見えてはこないのである。心を無にし無心に徹し物を目視したいものである。

 

         心を無色透明にしておかねば何も見えてはこない 

            俳人の心とは何なのかと考えていた私  

 俳句は無心の心の在りようが作者本人に宿っていなければ、一句の受け入れは出来てはいなかったのではないかと何時も私はこれまで思ってきた。

 私自身の心を無色透明にしておかねばならないことは、1970年当時の時代性にあった。感情表現をする時、如何に心を無にしていることが、目視に際し大事であるかを当時の事として知る。無心の心でなければ、周辺の物事を目視しても何も感じないのである。心が汚れていれば何も感じなくなる。目視しても何も心には入ってこないのである。私の記憶に強烈に残る一句がある。

   空賊遠く鏡中泳ぐ平和な髪    児島庸晃

私の句集『風のあり』より、1970年頃だったか。よど号ハイジャック事件が起こった。その背景にあったのが魔女重信房子の存在だった。その事件をラジオの臨時ニュースで聞く。その時の句である。この時代は若者の自殺者が多かった。世界同時革命を目論み立ち上がった事件だった。この暗い世の中にあることは私の身辺の事実でも知った。俳誌「渦」の同人だった中谷寛章と喫茶店で話をしている時、重信房子との交流のある中谷寛章の側に公安警察の目が光っていたこと。中谷寛章はこの時私に喋った。「すぐ後ろの席で俺を見続ける男がいるだろう。公安警察や。俺はお前を事件には巻き込みたくはないんや。しばらく会わないでおこう」。この時私は心が汚れとても悲しい思いをした。この事実を私は自分自身の心中を無にすることで耐えた。この時に目視したのが鏡に映った「平和な髪」であった。手の汚れを洗い落し、ふと鏡に映った私自身の頭髪がふぁっと広がり豊かに泳ぐようにそこにはあった。この平和な情景に私の心が救われた思いに安堵した。そして無心になるこころの大切を知る。29歳のときだった。人の心を豊かにするには心が純白であらねばならないのである。また心を空白にしていなければ何も見えてはこないのである。心を無にし無心に徹し物を目視したいものである。俳句の本心は誰もの心を納得させるものでなければならない。