俳句における目視とは何何何

     作者自身の両眼だけで視てはいけない……心での目視こそ

               児 島 庸 晃   

 私自身のことなのだが、私は俳句を作品と言えるレベルまで高めるのに意識そのもの        が高まらない時がある。何故だろうと思うことを、これまで何年も繰り返してきていた。…何時の頃からか私自身が試行錯誤を積み重ねてきていたようにも思う。ずーっと思いつめるほど苦しんできた。一体俳句って私にとって何だったんだろう。このことは私以外の俳句作品を見ても感動したりするほどのことはなかった。長い年月を経て理解出来たこと。…やっと私が納得出来たこと。それは私自身の思考に関わることだったと思うようになった。対象物を目視するとき私は私自身の両眼そのものだけで物を見ていたのかも。いま思うのだが、人間は感情と言う情感を豊かにすことが出来る頭脳をもっている。故に対象物を目視するときは、心で受け止め、心で感じる大切さがいるのであろうと思える今がある。私は目視の際に心をおろそかにしていた。心を大切に目視していなかった。つまり目視のとき心で物を視てはいなかったのかもしれないのだ。私をわからなくさせていたのは私自身が目視するときの心をおろそかにし両眼のみに託していることの問題であった。目視して「あ!」と思う瞬間には、その作者は作者自身の両眼だけで視ていたのではなかったのだ。そこには「あ!」と思わせた心が働き、つまりは心で物を見ていたのであろう。現代は情報社会である。知識だけがどんどん入っくる。この知識を求め、その知識を得ようと追っかける心だけが豊かになっていたのに、そのことをすこしも可笑しいことだとは思っていなかったのかもしれない。心の存在を忘れて目視していたようにも思う。目視は心で視なければならないと思えるようになった私の今がある。

   ぼくよりも遠くへ行ったかたつむり   前田 弘

俳誌「歯車」330号より。この句「かたつむり」をじっくりと目視している作者の視線の先には、もっともっと遥かなる先まであるこれから進んで行くであろう道の存在が見えている。その俳句言葉とは「ぼくよりも遠くへ…」。この俳句言葉は作者にとっては作者自身の両眼だけでの目視ではなかったのだ。その根拠となる俳句言葉は「ぼくよりも遠くへ…かたつむり」。作者自身の心の存在が私には見えてくるのである。即ち、ここには目視の時にしっかりと作者の思考する方向性が埋め込まれているのである。読者が、この句に魅かれ、気持ちが吸い込まれてしまうのには作者の心の重さが読者を動かせているのである。つまりは目視の際に「かたつむり」を心で視ていたのである。作者自身の心でひきつけひきよせている凄さを私は受け取ってしまった。目視は作者の両眼ではなく、作者の思考する方向性に沿った心の目とも言えるものであったのだ。

 目視が大切な事は、俳句だけの世界ではない。日常生活においても欠かせない大事なことなのである。だが私たちは、この目視がおろそかにされていて多くの事故を引き起こしている。常日頃使用している乗用車や営業車の日常点検整備や定期点検整備は目視による点検なのである。他でも建物や橋などの構造物も目視。この目視が基本とされているのである。何故目視なのか、と思った時、そこには人間としての心の有無が、この大切な部分の原点となっていて、これをおろそかにすると大変な事故の原因になっている。…このことは人の心を壊すことになる。俳句も人の心を壊してはならない。目視に両眼だけに託して物を視てはならないのである。常に心で物を視なければならないのである。作者の両眼だけで目視してはならない。心で物を視なければならない。いま俳句を表面だけで、つまり目視だけで見たままをそのまま表現しようとする俳人たちがいる。…これを表面主義表現俳句と言う。この表面主義表現俳句は、俳人の思考を自由に広げ、読者それぞれに合ったように受け取りが出来る事が良いことだとされるものである。かって映画表現において二十世紀の中頃フランスで流行した表現手法であった。ジャンリュック・ゴダール監督作品「勝手にしあがれ」。この映画におけるカメラを万年筆の様に使って事実画面だけを執拗に追い回す、つまり表面だけを実写する「カメラペン説」があった。この映画は多くの若者を虜にした。この映画を期に日本では松竹系の映画にヌーヴェルバーグと称する新しい動きが起こる。大島渚監督たちを始めとする一連の作品である。これら全てが表面主義表現なのである。いま私が、これらの表現方法を通じて注目している俳人がいる。それは表面主義表現に新しい魅力を付加して何かを心に訴え、何かを心に残そうとしているのではないかと思える俳人の存在を強く感じる新出朝子さんを私は思っていた。

   ネクタイのただぶら下がるだけが秋   新出朝子

俳誌「かでる」第85号より。新出朝子さんの両眼は正常な視力を持たない状態での目視である。それだけに目視は心の目なのであろう。…目視とは物を視ると言うことではなく何かを感じる心なのかもしれない。この句は「ネクタイ」をしているだけのことなのに、何故心がひきこまれてしまうのだろうか。ここに漂う虚無感は「ただぶら下がるだけ」と表現されての心なのである。視ているのは「ネクタイ」ではなかった。「ただぶら下がるだけ」の虚無としての心の有り様であった。目視の心そのものは表面主義表現なのだが、新出朝子さんの眼はカメラのレンズなのである。この新出朝子さんの眼のレンズには心を灯す表現の厳しさと暖かさが持ち込まれ読者を誘い込む鋭い強さがある。この句における虚無こそが俳句言葉を従来の表面主義表現とは異なるところなのである。それは執拗に「ネクタイ」を見続けることではなく「秋」を意識してのアイロニーにしていることが、単なる表面主義表現ではないのである。従来の表面主義表現における…カメラペン説…ではなく、…カメラアイロニー説…なのである。目視の心にはアイロニーがとても多く含んでいることそのものが新しい表現の始まりのようにも私には感じられるのである。

 この表面主義表現俳句にアイロニーを感じさせてくれていた俳人は昭和40年代にもいた。桂信子である。この俳人は「死」へ向かう「生」の美学、それは滅びゆくものへの美しさをアイロニーを込めて表現することであったようにも私には思える。桂信子は昭和43年「草苑」創刊。この頃より思想的な深まりが顕著になり、アイロニー美学のピークを迎えるのである。根底にあるものは表面主義表現俳句である。この表現の特徴は誰にでも受け入れ易く、しかも受け取り易い思考の表現なのである。ただ言えることは目視には心で視ることであった。作者は自身の両眼だけでの目視ではなかったのだ。ここにはアイロニーの鋭い心がなければ滅びの美学は生まれてはいない。心で物を視ることだった。

   母の魂梅に遊んで夜は還る     桂 信子

俳誌「草苑」昭和45年のものである。作者の母容態悪化の時の作品である。もうすでに意識のままならない母はいろんなところを彷徨い歩いているのであろうか。魂だけが梅を見に行き楽しみ、やがては遊び疲れて還ってくる。この信子の心は優しく淋しく暖かい。梅も母も、全てのものが幽玄の中に置かれ美しい。だが、この時、信子は母の容態悪化へ向かって自身の心と凄まじい葛藤を繰り返しているのである。この葛藤における心は信子の滅びの美学なのである。私が「草苑」同人時代であった頃のことなのだが、この作品に驚愕する事になる当時をいま思いだしているのである。それはここでの俳句言葉…「遊んで」…。ここには目視のときに「梅に…」の言語を俳句言葉にしてはいるのだが、ただ単に「梅」を眺めていたのではなかった。母の心を視ていたものと思われる。この俳句言葉「梅に遊んで夜は還る」こそが滅びの美学としてのアイロニーなのである。アイロニーとは?と思考したとき、その発生を問い詰めるとき、どうしても自然に生まれてくるのが、物を視るそのことは心で見詰めなければ人間の本心は表現出来ないのである。両眼だけでの目視をしてはならない所以である。信子の場合は目視の眼のレンズの奥にある心の眼はアイロニーを生み出す思考を所有していたのであろう。

   小さい秋百円ショップにつけ睫毛    高橋悦子

俳誌「歯車」384号より、この句には作者ならでの新しい試みの表現がある。この句は表面主義表現の形式に近いもの。表面主義表現の基本的思考は誰にでも受け入れやすいことであるのだが、その根底に作者の思考が込められていることも珍しい。その表現とは「百円ショップにつけ睫毛」の俳句言葉である。しっかりと目視ができているから、心で物を視ていることが可能なのである。この句は表面だけを写実しているにも関わらず表面だけではない、目視の際には、両眼で見ているのであるが、眼だけでは視てはいない。作者の思考が…あ!…と驚く吃驚の声を出しそうな心を伴っている。アイロニーの心を発生させているのだ。ここに表現されている「百円ショップ」の俳句言葉は心で目視をしているのであろう。このシニカルなアイロニーは心で視なければ出てこない表現言葉である。執拗に物を視ている眼はレンズなのだが、レンズが万年筆となって記述してゆく…カメラペン説…ではない。…カメラアイロニー説…である。目視の際には心で視なければならないのである。

 写実なのに写実だけではない目視の素晴らしさが読者の心を捉えて離さないのが次の句である。

   毛糸編む有袋類のように母     秋尾  敏

現代俳句協会発行「現代俳句」平成31年一月号より。この句は一見しただけでは、ただ表面だけをとらえているようにも思えるのだが…そうではない。ここにある「有袋類」の俳句言葉には深い作者の思い入れがあるろようにも私には思える。この詩性にゆきつくまでの「母」へ対する目視は表面だけの写実だけではないように考えてしまってた私がいた。何故だろうと考え込んでしまってた私がいた。作者と作者の母とのつながりに惹きつけられていた私がいた。これって一体何なんだろうか。しばらくして理解できたこと。…それは目視をするときには作者は身体いっぱいに心を込め、満身の心の眼で対象物を視ていたのかもしれない。表面主義表現俳句は誰にでも受け入れやすい詩形なのだが、そこに作者全身の心が発露されると迫力のある緊張感を生む。この句の「有袋類」には暖かさや柔らかさがあり、「母」の俳句言葉とかさなり母体の温もりを感じさせてくれる。「有袋類」の新生児は未熟状態で生れ,生後一定の期間, 母親の育児嚢中で育てられる。「毛糸編む」の目視はただ単なる眼で物を見るだけではなかった。目視には心で物を視ることが大切な所以である。この句にもカメラアイロニー説を思ってしまった私になっていた。

 物を目視するときの作者自身の心得、または心構えを私自身の実感を通して探ってきたのだが、作者の思考を単に表面だけで捉え表現してはならないことを記述した。俳句表現には目で捉えた現象だけを記述してはならないのである。そこには何時も、「あ!」と思う感情を感じることがあるもの。そのように思わせているのは心が働いているからである。物を目視するその時に得られた感動には心が宿っている。作者が受け取った感動を大切にしてゆきたい。目視には心を宿したカメラレンズになろう。句を作すとき眼だけで物を見てはならないのである。そこには必ず心が付帯する。