芭蕉の二物浸透論は今も大切

     俳句作品は円周から中心へ中心から円周への収縮拡大の繰り返しである

                児 島 庸 晃        

 JRの神戸線須磨駅を過ぎる頃になると海が広がる。車窓より目を遠くに向けると一面に開けた光景が遮ることはない。燦燦ときらめく反射はなくなり落ち着いた波の上を船舶が行き来していた。夏は過ぎ去っていた。通勤途上に殆ど見ているのに何故か気のつくこともなかった。それほどに季節の移りは微妙に変化していたのだ。波は平面に見えていて夏の力強さはない。だが俳人は僅かな変りにも敏感であらねばならない。そして私も必死な目を海面に向けて開く。するとそこには水平線があった。

 過去より今に至る間も俳人は作者の姿勢を大切にしてきた。いつも目の位置を何処に置くかによって作者の考えや思想まで表現しようとしてきた。
    古仏から噴出す千手 遠くでテロ 伊丹三樹彦
千手観音を見ての実感だが、そこに佇む作者はそのそばにはないが遠いところで頻繁に繰り返されるテロの日常にまで及ぶ悲劇を思う。あたかも救いのように手を差し伸べているかの観音に心を馳せる。作者は今立っている場所からもっと遠い場所へと目を移し、さらに今ある場所へと帰る…この繰り返しを何回かして、やがて今の場所の現状へと定着して言葉を生み出しているのだ。これは思想にほかならない。芭蕉の俳句はその考えの中に二物浸透論的なものがあり円周から中心へ、中心から円周への収縮拡大の繰り返しであった。そのことを思うと三樹彦のこの句は実にクラシックなのだ。
    しーんとつーんと朝 ずーと枕木の風景
    遠くへはとべぬバネにて あめんぼう
    丘までを 花の木までを 力足
    青空の凧の非力へ 糸 ひっぱる
    直進で風来る 風入る帆は袋
これらは私の過去の作品だが、芭蕉の二物浸透論的な考えがあっての句作であった。