徹底して物を見尽くさねば……
児 島 庸 晃
俳句は連想言葉の集合体である。またパーツ言語の集合体でもある。それぞれのパーツがいくつか組み合わさって完成されているもの。それぞれのパーツを組み合わせるには、それぞれの言葉と言葉のパーツを合わせる接着剤がいる。この接着剤が上手く機能しなけば、俳句は完成品にはならない。接着剤は心である。感覚や心情でもある。
では、その心、心情は、どのじょうにして生み出すのだろうか。生み出すといっても思考の積み重ねによってではない。それらはしっかりと、物を見ていれば、そこに一つのヒントを得ることが出来る。徹底して物を見尽くさねばならない。例えばだが、卓上に置かれた「林檎」を見て、みなさんは何を感じるのだろうか。…その味を感じる人。色を眼に呼びこむ人。その形の特徴を受け入れる人。まだまだいろんな事を思って「林檎」を見ているのである。人それぞれの興味の関心度は異なる。だが、誰もが見ている視線の先にあるものは同じ「林檎」なのである。でもこの「林檎」の句には類似句は生まれないのだ。ここが俳句と言う形式の最大の面白さなのである。
そこで何故類似句が生まれないのかだが、みんなが同じ物を見て俳句を書いても、俳人一人一人の思っていることは違うのである。ここには心があり、その心は日常の生活姿勢に起因する。私性の文体が文学には必要だと思われる所以でもある。
かって、鈴木石夫先生は…これがわたしの俳句だといえるものができるまで続けなさいと…と言われた。全くその通りである。この言葉は俳句を書く者にとっては基本的態度である。その心とは天性のものではないのだ。その心を磨くには努力がいるが、普通にしていたのでは進歩しない。どうすればいいのかだが、その心の真理は、いったい何なのかだが、物には、それそのものが所有している情感がある。その情感を受けて横へ連想させてゆくこと。この時に俳人自身の心も一緒に連想させることなのである。物を見たその時に感じた心を大切にして、そこで思ったことを次の言葉へ連想させてゆく。そうして言葉を繋いで、また別の言葉へと広げてゆくことなのである。先ほどの「林檎」であれば、赤くて円形体で甘酸っぱい味がする、と一般には思われている。では、ここからどのように発想を展開してゆくかなのだが、赤くて円形体ならば「達磨」を思いつく人もいれば、ただ赤い部分が目に浮かび「日の丸」を思う。甘酸っぱい味が心に残れば、四季それぞれの果実を思うだろう。でもこれらは全て物体からの連想なのである。俳句はこれらの連想の繋がりにより思考が展開されているのである。この連想の意外性が求められ、この意外性の強調が俳句に新鮮さをあたえているのである。
紙漉のこの婆死ねば一人減る 大野林火
現代俳句協会データベース作者一覧より。この句のポイントは老婆ではなく紙漉の作業している人にあり、一つの物体の連想から次への連想に向け関連性を保持しながら思考を動かし情感を強めている。老婆へと発想が動くまでに作者の目には紙漉の作業そのものしか見ていなかったであろうと思う。そしてその作業の手つき動きに目が止まった時に「婆」を意識したものと思われる。この「婆」を見ていると、この年にまで作業を保持してきた心を思ったであろう。「婆」からはそこに死の観念が浮かび、紙漉人は「一人減る」と、ここで句が定着する。これを要約すれば全て連想なのである。作者自身による心中の連想なのである。紙漉→婆→一人減る…と連想を繋ぐ工夫がある。物体よりの作者自身の心情を連想させての俳句。「紙漉」の作業人が「一人減る」ことの真実が「婆」であったことの意外性の強調は連想の流れの上手な定着であった。
連想は、時に作者を素直にさせてしまうものだ。それは予期していない時に起こる。意外性は…そんな作者の素直な気持ちの心に宿る。
しゃぼん玉ひとつふたつは風を蹴り 花谷 清
俳誌「藍」500号記念特集、花谷 清自選作品より。「しゃぼん玉」からの連想は詩情深いものを感じるが、ここでの発想の原点は人間と同じ扱いで命の通った個人なのである。所謂生命ある一個人としての存在なのである。「しゃぼん玉」に作者自身を連想させているのだ。そして沢山ある「しゃぼん玉」のなかから「ひとつふたつ」と作者自身に近いものを選びだす。この言葉の繋ぎは全て連想なのである。その後の展開へと言葉を広げて結ぶ。それが「風を蹴り」なのだ。連想とは…このように作者の心を連想させながら結合して一句を完結させるものなのである。だが、この「しゃぼん玉」は自己主張の意志を持っている。普通は風に乗って飛んでいるのだが、風をけっ飛ばしているのである。これは連想による物語の凄い結末。この連想が可能なのは心が素直でいられる時でしか対象物は見えてこない。全ての連想は純粋な心でこそ物体は見えてくるものであろう。
意外性と言っても難しい思考はしなくてもいい句もある。連想に連想を縦に重ね対比させて句意を深める手法である。
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
句集「神楽」(平成11年)より。同じ言葉のリフレインである。何が意外性かといえば「あめんぼと雨と」の同じ光景を二回連想させていることである。わざとらしいといえばいえなくもないのだが、ここがこの句の強調する部分なのである。何故なのか。共通していることは…水…なのである。連想の基本は一つの象徴するものを通して連想することにより、言葉の連想がスムーズに理解されるからなのだ。この場の「雨」は「あめんぼ」にとってはなくてはならない大切な…水…なのである。また、「あめんぼ」と「雨」は切り離せない連想言葉だからである。このように一句の成否を考えるとき、連想言葉は幅広く動き廻る。単純に連想を繋ぐ心を深めてゆくと、遂には連想言葉までも誕生させてしまう。連想は言葉を動かせて読者を楽しませてくれる。
また連想の思いを重ねるときに、たった一語のみの言葉ににこだわり心を広げる句に出会うことがある。そのような句には重厚感を置くことができているようにも思える。
啓蟄のなかなかできぬさかあがり 大場佳子
俳誌「歯車」369号より。重厚感のあることばとは「啓蟄」。この言葉一つのみで句を完成させている。作者もこの言葉にポイントがあることを示し、他の言葉すべてをはひらがな書きにしているのだろう。「啓蟄」からの連想だが、寒い季節より生命が動き出す心を作者なりに感受。ここからの連想が凄いのである。具体的なものは一切登場させないで「啓蟄」の言葉からの連想を完結させようとしているのである。例えば、この場に必要とあれば、子供たちが光景の中に配置されていても、思うのだが場面設定のなかにはない。これは何故なのだろうと思う。どこまでも「啓蟄」の連想そのものを自己主張したかったのでは。私にはそのように思われる。…このように一切の言葉を排し、主張したい連想言葉を自ら生み出すことの意味は連想言葉を重くする。
連想言葉に重みを置き、句を意識的に仕上げる面白さは、俳人にとってはとても楽しい。その楽しさ故に読者も喜びの中へ溶け込むこができる。
木枯一号都合があって夜に来る 飛永百合子
俳誌「歯車」368号より。この句は作者が自前流に連想言葉をつくりあげて新しさを求めようとしている。その言葉とは「都合があって」。連想言葉を作者好みに作る楽しさは、作者の性格までも出てしまうもの。この「都合があって」は作者の都合なのである。作者流に考える連想言葉なのである。