俳句における「虚」を「真実」

            私を空想の世界へと〜……寺山修司さん

                  児 島 庸 晃

 ところで私には、「虚」を「真実」へと誘引して、私を空想の世界へと遊ばせていただいた俳人がいる。
   少年のたてがみそよぐ銀河の橇   寺山修司
寺山さんは多彩な方で俳人というよりも短歌人としての名声が一般には流布されている。また演劇人としても著名な方。だが、私が一番影響を受けたのは俳人としての「氷海」に投句されていて秋元不死男選を受けていた頃である。まだ高校生から大学生へと進み変身を遂げている頃。従来からの句からでは得られない感動をもらっていたのだ。どのように発想を工夫しても、当時の俳壇は日常の次元からのもので日々の生活の延長のように思える句が多かったものである。どの句を見ていても退屈してばかりであったのだ。このころ句へ向かってゆくときの不満を充分に満たしてくれていたのが寺山修司さんだった。その句、「少年の…」のここに表現されている句には空想が籠められている。目に映った光景を見たままには表現しなかったのだ。すなわち写実ではなかった。視線の先には、こうでありたいと言う理想を持って現実を見ていて、ここには日常より非日常へと空想が籠められているのである。これは本当は嘘の事。つまり「虚」である。しかし「「虚にゐて実を行ふべし」の名言の芭蕉の思考を試みていたことになるのだろう。当時の私はそれが「虚」の中にいて日常から非日常の世界へと誘引されているものだとは思ってもいなかった。けっして「虚」だと思ってこの「少年の…」句を受け入れてはいなかったのだ。只今の現実の光景として受け取っていた。いま、俳人森澄雄さんの…詩の真実としては「実」よりも「虚」のほうが巨きい…という真実感が、俳句を何倍にも面白くしているのではないかと思える昨今である。「虚」は真実を引き出す魔法のような現象や現実を呼び起こすのかもしれない。