短詩系……特に俳句が若者に流行してきたのには理由があった

青年男女は日々の苦悩を語り始めた表現……俳句は 児 島 庸 晃 (この文章は昭和63年「青玄」412号3月号に掲載されたものを採録しました) カワチポテト族ということばを聞いたのは昭和62年11月ごろであったか。ニューヨークの若者たちの現在のあり…

「虚」を「真実」へと誘引して現実感を表現するとは……

俳句が全く面白くない……生きていることの実感がないと言う人に 児 島 庸 晃 何処の句会に出ても一様に聞く言葉がある。最近の俳句作品を見ていても面白くないという。そしてどの句を見ていてもどれも同じに見えてくるというのだ。何故なんだろうと思う。句会…

素直な作者自身の情感は大切……何故

素直な俳句言葉で表現しよう 児 島 庸 晃 俳句を作るのに実感が、どれほど大切であるのかはそれぞれの俳人の共通の認識であることは承知の事実である。しかしこの実感がなされるのにテクニックは必要としないことはあまり知られてはいない。何故ならば作者自…

ここ数日試行錯誤に悩んでいたこととは……

ある俳人の言葉に感動した日の事 児 島 庸 晃 ここ数日私は、このなんとも漠然としていて、どうにも訳のわからぬ思考にとりつかれていた。考えても思慮深く思い巡らしても、一向に考えが前進しなかった。ところがである。ある日だった。思いもしてはいなかっ…

終身生命あることの大切を問い続けていた俳人

俳人桂信子における必死な心(2023年1月23日記述) 児 島 庸 晃 見渡す限りの水面に冬鳥たちは快く楽しくその冬の一瞬を遊んでいるのかにも思える午後の武庫川であった。だが、朝の気温がマイナス1.5度。早朝の武庫川の風景が見たく何時しか歩みはじ…

パーパス(存在意義)は何故を生む

一俳人の俳句の存在意義 児 島 庸 晃 それぞれの俳句に含まれる『何故』とは何なのか。どうして「何故」が『何故』を生むのか。伊丹三樹彦が白寿を前にして亡くなり、三樹彦が残してくれた文言に改めて深い重さを受け取っているのである。そこで今回は俳句に…

それは不可視という現象だった

不可視を可視にした俳句の創始者……俳人伊丹三樹彦 児 島 庸 晃 そこにあるのだけれど見ようとしなければ見えてはこないもの…それを不可視という。人の心は不可視の中にこそ潜むもの。日常の出来事だけが五・七・五の定形であってはならない。 …つぼみの中を…

武庫川河川敷を歩く

久しぶりに河川敷を歩いてきました。もう初夏。いろいろな花に囲まれての私の今日の朝の始まり。どれも明るい光彩の花弁に、目が飛び移り心が励まされました。ここは私の、かっては鬱を棄てる場所でもあったところ。社会の仕組みに取り残されて私の心がつい…

潜在意識とは……何

潜在意識を発見することの大切さ 児 島 庸 晃 心の準備と言えば、目視に際し潜在意識を発見することかもしれないと思うことが私にはある。目視とは作者の目に最初に飛び込んでくる事柄でもあるが、作者にとっては一番に興味をひくことでもある。何故興味を引…

俳句作者自身のラッピングをしなければならない

難解俳句と呼ばれているものを紐解く 児 島 庸 晃 俳句を何十年も作り続けていると、見るもの全てが有り溢れている句に思え、つまらない俳句に思えてくる。心で受け入れようとはしなくなる私。そんな毎日につまらなさを思う私。日々視る自然や物事にも興味が…

俳句は一人称表現だが……目視物は三人称ばかり

本物感は何時も一人称の発想視点 児 島 庸 晃 世の中に現存するものは一人称のものばかりではないのである。一人称の表現スタイルが俳句の本物感を深めるのには欠かせないのではあるのだが、目視の対象は三人称のものばかりである。我々の生活日常は複数の形…

社会から疎外された時の自分自身の復旧回復とは

癒しの心で俳句する大切さを考える 児 島 庸 晃 毎日の生活のなかで他人の言葉に傷つき、社会から疎外された時、私たちはどうして自分自身を復旧回復させているのだろうか。ときどき思うことがある。私たちの青春はフォークソングに身を投じ音楽喫茶に群がっ…

常に死を見つめ…生を見つめ…

俳人桂信子の生前の1句 児 島 庸 晃 常に死を見つめ、生を見つめ、老いを見つめ続ける桂信子の生前の一句。 水に浮く蛾が生きていて西日さす 桂 信子 句集「新緑」の中の句である。主宰誌「草苑」、昭和45年作である。ここには心情を素直に表出する信子が…

人間的思考はアナログ思考にこそ

俳人……桂信子の思考とは(2006年7月28日記述) 児 島 庸 晃 職場での使用している監視モニターは全てにおいてデジタル化されてゆこうとしている。一部は録画にビデオを残すが時代の流れと共にデジタル処理へと変わることになるだろう。鮮明な画面は良…

俳人春田千歳さんへのオマージュ 

句集「蟬氷」には心がいっぱい 児 島 庸 晃 俳句における情感とは何か…を思考しているとき、句集「蟬氷」を頂きありがとうございます。吃驚しました。この句集には千歳さんの心がいっぱい詰まっての叫びだったのですね。句集を出さねばの心の程が理解できま…

私は俳人福島靖子さんから心を……貰っています

言葉選び…言葉作り…言葉並べ… 児 島 庸 晃 日頃から多くの句を読み、文章を書いているのですが、心に留める俳句が少なくなってきたように思うのは、私も晩年期のこと故なのでしょうか。感覚の鈍さが、日々私の心を苦しめます。そのような時、句の本心を伝え…

心が優しくなれている言葉の成否

俳句言葉が機能出来ているか否か 児 島 庸 晃 人間独特の情感を深く追求してゆくとそこには本来の言葉の成立と関わっていることのようにも私には思えるようになってきていたいまがある。日常の生活を順調に過ごしてゆくには言葉の齟齬が発生しないように気を…

……重く美しい言葉が欲しい……… 

俳句における私性の文体考察 児 島 庸 晃 私の心の奥深くに未だに消えないで残っている言葉がある。昭和四十年代の次のことばであった。 …斉藤正二氏は“俳句不毛の時代”だと叫び、兜太氏は“精進の時代”だという。この二者の間にある思考の相違は現代俳句に於…

その句に純粋性がなければ実感ではない

その一句に共感出来ない時がある 児 島 庸 晃 ずーっと考えていて未だに納得の出来ない事がある。感覚は鋭く新しい感覚なのに、その一句に共感出来ない時がある。どう考えてみても心が動かないのだ。そんなある日のことである。もっと単純な形に詩形を置き換…

神戸新聞読者文芸 詩部門で入選 お知らせ

神戸新聞読者文芸 詩部門で3月の入選になりましたのでお知らせします。 児 島 庸 晃 寒い手 令和6年3月25日朝刊掲載 時々は 頬杖の杖にも している 寒い手を いまも 最晩年期の 要介護4の 妻の手を 転ばぬように 私の手 選者……時里二郎さん選評 妻の介…

俳句における「虚」を「真実」

私を空想の世界へと〜……寺山修司さん 児 島 庸 晃 ところで私には、「虚」を「真実」へと誘引して、私を空想の世界へと遊ばせていただいた俳人がいる。 少年のたてがみそよぐ銀河の橇 寺山修司 寺山さんは多彩な方で俳人というよりも短歌人としての名声が一…

私性句体の本質とは

……その本質実態に迫る…… 児 島 庸 晃 私性の句体は心をからっぽにすることから始まる。からっぽにすることが出来た心で目視を始めること。私がこのことをはじめて知ったのは野木桃花さん(「あすか」主催)の言葉だった。 ・・・つねに純粋な目で物を観たいと思…

良い俳句とは言葉が機能するように工夫すること

俳句の良い作品 良くない作品の基準とは 児 島 庸 晃 よく聞かれる言葉に、良い俳句を作る基準とは何ですか、と唐突に話しかけてくる人がいる。当然のことのように必死で聞いてくるのだが、私としては、一度もこれだと確かな答えをしたことはない。これから…

人間には五感がある……その五感は感覚をつかさどる

現代俳句は感覚で理解する 児 島 庸 晃 思考をどのようにして察知すのかと思うのだが、それは感覚である。人間には五感があるのだ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。そのうち俳句は視覚の部分が殆んどである。これらの部分より、俳句は感覚で理解するのである…

俳句現代派とは何を意味するのか

俳句表現における話し言葉と書き言葉 児 島 庸 晃 俳句には決まりごとがあって、それを破ることは俳壇から疎外されると言う時期があったことを、いま私は思い出していた。昭和三五年頃のことである。俳句の散文化現象である。この頃は俳句の勃興期であり、ま…

時代を背負った思想が若者にはあった

昭和40年頃の若者俳句……青春俳句集団 児 島 庸 晃 俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての俳句結社「青玄」青春俳句が…そうであった。 昭和43年4月28日。…

社会の中で毎日を生きてゆく心の回復……俳句は

現実社会の中で生存意識への生き様を魅せる 児 島 庸 晃 俳句的思考は人生共生の中で如何に生きて行ったのかを見事に実証したのが次の句である。社会生活で疲れ果て、そのことが故に生存意識への生き様を魅せる。 コスモスに青空 帰郷のシャッポ脱ぐ 伊丹三…

人工知能(AI)「一茶くん」に対する私の思い

人間の感性とも思える情感が人工知能で表現できるのか? 児 島 庸 晃 最近の俳壇で話題になり始めたことの一つに人工知能を使って作った俳句作品の良否が、あちらこちらで起こり、いろんなところで話題の中心になり始めているのに驚かされている私である。何…

アイロニーとは…表面の意味とは逆の意味

意味を感じさせないで、その句の根底に意味を置くには 児 島 庸 晃 作者と読者をつなぐものは情感である。意識を強く引っ張る強要になってしまってはならない。それはおしゃべりで意味を強要すことに等しいのだ。意味で句を作ってはならないのである。 では…

心を無色透明にしておかねば何も見えない

俳人のこころとは何なのかと考えていた私 児 島 庸 晃 俳句は無心の心の在りようが作者本人に宿っていなければ、一句の受け入れは出来てはいなかったのではないかと何時も私はこれまで思ってきた。 私自身の心を無色透明にしておかねばならないことは、19…